イラスト . 西村舞
小説 「優しさの回路」
旅立ち前夜
気持ちが昂ぶってどうしても眠れなかった。
わたしはベッドから抜け出すと、常夜灯に赤く照らされた階段を下り一階のホールに向かった。薄暗い廊下を音を立てないようにそっと歩く。明日に備えて、いまはみんなぐっすり眠っているはずだから。
けれど、開け放したままのドアを抜けて中に入ると、そこにはすでに先客がいた。
がらんとした薄暗いホールの窓辺に誰かが佇んでいる。
「誰?」と訊ねると、「おれだよ」と返事があった。
「佑樹?」
「うん。こっちにおいでよ。月が綺麗だよ」
彼の横に並び、大きな窓から夜空を見上げる。青白く光る三日月が、ヒマラヤ杉の黒いシルエットの上にひっそりと掛かっていた。
「ほんと、綺麗ね」
「だろ? だから呼んだんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
「それで、わたしはここに来たのね?」
「うん」
「腕を組んでいい?」
「いいよ」
わたしは自分の腕を佑樹の長い腕に絡めた。彼はとても温かかった。
「いよいよね」
「ああ、なんだか夢みたいだけどな」
「ほんとに世界は変わるのかな?」
「智弥が言うんだから、そうなんだろ。世界は良くなる。おれたちはそれを信じて、全力を尽くすまでだよ」
「恐くはない?」
「ああ。繭子は?」
「わたしは恐い」
「そうか……」
「佑樹のことが。だって、危ないところなんでしょ?」
「そうでもないさ。おれはとびきり勘がいいんだ。問題はないよ」
「わたしが一緒なら、なにかあってもすぐに治してあげられるのに」
「そうだな。でも、年が明ければすぐに合流できる」
「うん……」
わたしはそっと溜息を吐いた。それでも不安は去ってくれない。
なあ、と佑樹が言った。見上げると、そこにはいつものあの笑顔があった。
「おれたち、ずっといいコンビだったろ?」
「そうね」
「まるで兄妹みたいにさ、いつだって馬鹿を言ってはふざけあってきた」
「うん、そうだね」
「でも……」
「うん?」
「もうそろそろ、それも終わりにしないか?」
えっ、とわたしは思わず声を漏らした。抑えきれずに、それはまるで物悲しい叫びのようにホールに小さく木霊した。
「どういうこと?」
「どうも、こうも、そういうことだよ。おれたちはもう子供じゃない。もう、これまでのようにはいかないんだ」
わたしはそっと腕を解き、彼から一歩あとずさった。月灯りが佑樹の頬を青白く照らしていた。
「わかった」とわたしは言った。
「そうだよね。もう、わたしたちは子供じゃない。もうすぐ十四になるんだし……」
「ああ……」
涙が零れそうになった。わたしは佑樹から顔を背け、ホールの薄暗がりをじっと見つめた。
無性に哀しかった。
なぜ、そんなこと言うんだろう? なぜ、明日に出発を控えたこの夜になって、突然そんな哀しいことを……
彼はなにも言わずに、ただ黙って夜空を見上げていた。
これまでの日々
佑樹とはESP(超感覚的知覚)テストの会場で出会った。
会場となった医大の教室には、五十人ほどの子供たちがいたけど、その中でも彼の風変わりな姿は群を抜いて目立っていた。
佑樹は針金細工のように痩せていた。ひょろ長い手足を誰かからの借り物みたいに不器用に使って歩く。まるでスティックで操られてるパペットみたい、とわたしは思った。
斜め後ろの席だったので、わたしは思うまま彼を観察することが出来た(なぜだか分からないけど、ひと目見たときから、わたしは彼のことが気になってしかたなかった)。
ゆるくうねった長い髪。痩せている割には広い肩。なんだか、すべてのパーツがちぐはぐで、どうにもバランスが悪い。いまにも分解してしまいそう。
けれど、彼はすごく落ち着いていた。自分のねぐらでくつろいでいる獣みたい。堂々としていて、自信たっぷり。まわりの子たちなんか気にも留めない。
簡単なペーパーテストのあとで、子供たちは数人ずつ隣室に呼ばれて三十分ほど個別のテストを受けた。そこに向かうときも、彼はひょうひょうとしていた。大人たちを少しも恐れていないみたいだった。このテストそのものを、どこか見下しているようなところさえあった。
わたしは、どうしようもないほど緊張していた。なんでこの会場に呼ばれたのか、その真の理由もよく分かっていなかったし、自分の秘密が露わにされ、数値に置き換えられていくことに言いようのない不安を感じてもいた。
ちょうど一年前、わたしは原因不明の奇妙な病気に掛かり、国が設けた専用の施設に収容された。四十二度に達する高熱と、そのあとの長い眠り。
十歳から十三歳の子供たちだけが掛かる未知の「感染症」だった。一時はかなり厳重に隔離されていたのだけれど、結局、どれだけ調べてもウィルスのようなものは、なにも検出されなかった。
それでもわたしたちは施設で暮らすことを強いられ続けた。というのも、やっぱりこの病気には伝染性がある、という報告があったからだ。
ウィルスではないなにかが、この「病い」を伝播していく。どれだけ一緒にいてもなにも起こらない子供たちがいる一方、発症した子と目を合わせただけで同じ症状に陥ってしまう子供もいた。
年齢的に見て性腺の発達となにか関係があるのではないかと考える医師もいた。フェロモンのような化学物質が発症の引き金になるのかもしれない──そんな仮説がとなえられ、その発見にかなりの人員と予算が注ぎ込まれた。
けれど、いまのところまだこの研究プロジェクトからはなんの成果も上がっていない(わたしは、智弥の説が正しいように感じている。これはたぶん「病い」ではなく「成長」なのだ。あるいは、もっと大胆に言ってしまえば「初恋」のようなものなのかも。だとすれば、性腺の発達ともあながち無関係とは言えないのだけれど)。
ともあれ、この星のあらゆる国で「病い」は広がってゆき、最初の症例が報告されてから一年後には、全世界で一千人近い子供たちがこの病気に罹患していた。
あのとき会場に集められた五十人は、みんなその「病い」に掛かった子供たちだった。
長い眠りから覚めた子供たちは、みんな自分が変わったように感じていた。文字通り「覚醒」したような気分。
五感が研ぎ澄まされ、それまでよりもずっとよく世界が見通せるようになった。物事を理解したり推測したりする力も増した。妙に勘が良くなって、「虫の知らせ」みたいなことを口にする子供も現れた。
それで、大人たちは目覚めた子供たちの能力を調べることにした。ありとあらゆる検査やテストが実施され子供たちの内面が計測されていった。あのESPテストもその中のひとつだった。
ひとには隠していたけど、わたしにはときおり、ひとの心の声が聞こえることがあった。「眠り」の前にはなかったことだ。
何度か相手が思ったことを言い当てて驚かれてしまい、それ以来、わたしはこの不思議な力を隠すことにした。なぜだかは分からないけど、知られてしまうことがすごく恐かった。
それにわたしは、どうやらひとの痛みや傷を癒やす力も得たようだった。
施設で一緒だったふたつ年下の男の子が、気圧が大きく変わると、きまって喘息と頭痛の発作を起こし苦しんでいた。すごくつらそうで、端で見てみても痛々しかった。
あるとき、発作の最中にふと思いついて彼の胸に手を当ててみた。すると見る間に症状が治まってゆき、一分ほど過ぎた頃には、彼はもうすっかり普通の状態に戻っていた。
なぜ? と驚いた顔で訊くから、なんだか出来そうな気がしたの、とわたしは答えた。
実際その通りだった。わたしには不思議な予感があった。わたしは彼の苦しみを取り除くことが出来る。そして、それをどのようにやればいいのかも知っている……
何度も繰り返す高熱と、それにともなう隔離の日々を通して、わたしはひとの苦しみに対する感受性を高めていたのかもしれない。そして、寄り添う力も。
もともと感じやすく、些細なことにもすぐに傷ついてしまう子供だったけど、「眠り」のあとは、とくにひとの苦しみにいっそう敏感になったような気がしていた。その末に得たのがこの精神感応力なのかも。
彼には、このことを秘密にしておくように言っておいた。そのかわり、つらいときにはいつでも、わたしが治してあげるから。
「わかったよ」と彼は言った。
「ぜったい、誰にもいわない」
そうやって、けんめいに隠してきた力が、大人たちに知られてしまうかもしれない。そう思うとすごく恐かった。
いよいよ次はわたしが隣室に呼ばれる番となったとき、とつぜん頭の中で「声」が響いた。
《きみの不安は正しい。このテストには、なにか裏がありそうな気がする。だから、正直に答えちゃ駄目だよ》
わたしは驚き、慌ててまわりを見回した。
《普通にしていて。大人たちに気付かれないように。本当の能力を持った子だけにぼくは呼びかけている。テストでは嘘を答えるんだ。間違え過ぎてもいけない。目立たないように、うまくさじ加減をして、そこそこの成績に収めるんだ》
わたしは斜め前に座る例の少年を見た。彼は頬づえをつき、空いた左手でテスト用紙の裏になにかを書き付けていた。
あなたなの? と心の中で呼びかけてみたけど、返事はなかった。
その直後、わたしは係官に名前を呼ばれ教室をあとにした。
個別テストで、わたしは嘘を答えた。ゼナー・カードのテストでは、思いついた図柄とは違う答えを織り交ぜ、全体を通して正解率が五分の一を大きく超えないように気をつけた。相手が思い浮かべた風景を答えるテストでは、まったく見当違いの描写をして、勘の鈍い子供であることを大人たちに印象づけた。
わたしは規則を破るということがどうにも苦手だった。そもそも、そういう発想がないのだ。規則は絶対で、それは物理の法則のように、わたしたちの行動を固く律している。
だから、あの「声」がなければ、わたしは正直に答えてしまっていたかもしれない。隠すことは出来ても、嘘はつけない。それがわたしの限界だったから。
すべてのテストが終了したあと、ひとりの少年が近づいてきてわたしに声を掛けた。
「うまくやったね。これで大丈夫だよ」
あの声だった。
見た目は十歳にも届かないような幼い顔立ちをしてる(そのとき、彼は十一歳になったばかりだった。実際にまだ幼かったのだ)。大きな黒縁のめがねを掛け、柔らかそうな髪を眉の上でまっすぐ切り揃えていた。
「よろしく」と言って、彼は紅葉のような小さな手をわたしに差し出した。握り返すと、とても温かかった。
それが智弥との出会いだった。正真正銘の天才児。わたしたちの運命を変えたひと。そして、いずれは世界の運命をも変えてしまうはずの、とてつもない神童。
「また、ぼくらは出会うことになる。ぼくらは世界を変える子供たちになるんだよ」
「それって……」
「じゃあ、またね」
わたしが言葉を探している間に彼は行ってしまった。慌てて、今度はあのパペットみたいな長い手足の少年を探したけど、彼もいつの間にか教室からいなくなっていた。
自分でも理由の分からない失望と哀しみが胸の奥で疼いていた。
また会いたいと心から願い、その思いは、やがてかなえられることになった。
*
テストから三月後、智弥が選んだ七人の子供たちが、ひとつの施設に集められた。
「少しだけデータに手を加えたんだ。大人たちが気付かない程度にね」と彼は言った。電子データの改竄など、智弥にとっては造作のないことなのだろう。科学に疎いわたしには、それはもう魔法と同じようなものだけど。
あの一連のテストが終わると、大人たちはその結果をもとに子供たちをいくつかのグループに振り分けていった。その機会にうまく乗じて、智弥は密かにメンバーを一カ所に集めた。
「まあ、もっとも、放っておいても、このメンバーの顔ぶれに大きな違いはなかったと思うけどね。この施設には、主に性格検査で倫理観の高さを示した子供たちが集められたんだ。極度にナイーブである一方、克己心が強く、利他的で寛容、公平無私──まあ、言ってみれば母性的なパーソナリティーを持った子供たちだよ。そして、超感覚的知覚能力は『検出されず』」
そこで智弥は可笑しそうにくすくす笑った。
「みんな上手だったね。ひとりだけ、ちょっとしくじって別の施設に送れらた子がいるんだけど、彼にもいずれは、ここに来てもらうつもりだよ」
「しくじった?」とわたしが訊くと、智弥はぷっと吹き出した。
「そうなんだよ。佑樹っていうすごく頭の切れる子なんだけど、ちょっと悪ふざけするっていうか、ひとをからかって悦ぶところがあってさ。彼はゼナー・カードのテストできっちり五分の一の成績を収めたんだけど、最初の四十問すべて不正解、最後の十問をすべて正解っていう、ありえない偏り方で答えちゃったんだ。それで、PSIセンターに送られちゃった」
「PSIセンター?」
「俗称だけどね。実際にはただ第五施設って呼ばれてる。ESPテストで有意な数値を示した子供たちが集められたんだ。でも、あの施設で本物なのは佑樹だけだよ。彼は、ぼくがなんとかする。あそこは、この能力を兵器として使えないか研究する施設なんだ。子供たちにたいした力がないと分かれば、いずれは諦めると思うよ」
そして実際、その三週間後には佑樹もわたしたちに合流した。
施設にやってきた彼を見て、わたしは小さな歓喜の悲鳴を上げた。
あのひとだった! また会いたいと願っていた不思議な少年。
「よろしく」と彼は言った。
「また会えると思ってたよ。きみの視線は独特だった」
わたしは真っ赤になって俯いた。
「気付いてたの?」
「まあね。おれは頭の後ろにも目があるんだ。だから、こっちもをじっくりときみを観察させてもらったよ」
「嘘! そうなの?」
その途端、彼はけらけらと大笑いした。
「嘘に決まってるじゃん。当てずっぽうだよ。おれ、勘だけはいいんだ」
「ひどい!」
「悪い、悪い」と彼は言った。
「きみって、すごく素直なんだね。おまけにとても美人だ」
頬が一気に熱くなった。
「突然なにを言うの?」
別に、と彼は言った。
「ただ、思ったことを口にしただけだよ。これからよろしくな」
わたしは彼から目を逸らし、口の中で、ええ、と小さく呟いた。
胸がどきどきしていた。息がとても苦しかった。
佑樹とわたしはすぐに親しくなった。最年長の十三歳同士だったし、思うこともよく似ていた。ふたりとも自然が好きで、身体を動かすことはもっと好きだったから、外出が許可されたときは、よく一緒に施設の裏の松林を散歩した。
散歩にはそのときどきでいろんな子たちが加わったけど、いつも一緒だったのは美夏子と颯太のふたりだった。
美夏子はひとつ下の女の子で、琥珀に近いような明るい色の髪を腰の近くまで伸ばしていた。彼女もすごく勘が鋭くて、よくいろんなことを言い当てた。
いま、ドアを開けてあの子が入ってくるよ、とか、今日の先生の服はきっとクリームイエローだよ、とかそんなこと。
それに彼女は、わたしと同じように、ひとの痛みや苦しみを癒やす力も備えているようだった。
「試したことはないの」と彼女は言った。
「でも、できるって、なぜだか分かるの」
彼女は夢で見た物語をわたしに話してくれた。
「見知らぬ国で、ある少年がわたしを助けてくれるの。すごくハンサムよ。言葉は通じないけど、とても優しいひとだってことがわたしにはわかる。あたりからは途切れることなく銃声が聞こえていて、ときおりひとの悲鳴が上がることもあるわ。彼はわたしの手を引いて安全な場所へ導いてくれる。石造りの小さな建物。中に逃げ込むと、わたしたちは壁を背にして並んで座るの。そのとき、わたしは初めて彼が怪我をしていることに気付くのよ。白いスモックのような服のお腹に血が滲んでいる。わたしはためらうことなく彼を抱きしめるの。彼もわたしに身を任せてじっとしている。そうやって何時間も過ぎるうちに、やがて、彼の傷は癒えてゆく。痛みは遠ざかり、彼はすっかり寛いで、わたしの腕の中で眠ってしまうの……」
颯太は、あの喘息と頭痛に苦しんでいたふたつ下の男の子だった。わたしと一緒の施設になったことをとても悦んでいた。彼は天気を読むのがとてもうまかった。
颯太が「あともう少しで雨が来るよ」と言ったら、わたしたちは急いで施設に戻らなければいけない。彼が雨の到来を読み間違えたことは一度もなかった。
とても甘えん坊で、いつもわたしの身体のどこかに触れている。そうすると安心するのだという。わたしも彼を弟のように可愛がっていた。
わたしたちはみんなよく似ていた。極度にナイーブで、いつも不安を感じているけれど、それを克服する力も備えている。ひとを思い遣る心を持ち、弱い者にはとくに肩入れしてしまう。
みんな年の割には大人びていて、大人のような口調でしゃべる。難しい言葉もいっぱい知っていて、珍しい語彙を好んで使おうとする。間違えることもあるけど、失敗は恐れない。わたしたちは自由に表現したいと願っている。本をよく読むし、五感をめいっぱい使って世界を知ろうとしている。さらには、その先にあるものさえも──
「おれたちの存在そのものが、なにか用意されたもののように感じないか?」
そう言ったのは佑樹だった。
わたしたちは智弥から彼の「計画」を打ち明けられたばかりで、みんな激しく興奮していた。じっとしていられずに、いつもの四人で施設を抜け出し、松林の小道を歩いた。
計画はあまりに壮大で、この星の運命を左右するぐらい重要なものだった。
みんなに協力して欲しいんだ、と智弥は言った。すごく大変な役目だとは思うけど、よく考えて答えを出して欲しい──
「すべてはこのときのためにあったんだよ」と佑樹は言った。
「あの病気も、おれたちの気質も、そして、この能力も」
「そうなの?」と颯太が訊いた。彼はわたしのフレアスカートのひだを固く握りしめていた。
「ぼくには、わかんないや」
「きっとそうよ」と美夏子が言った。
「あの夢は予知夢だったんだわ。わたしたちはみんな最初から自分たちの運命を知っていたのよ……」
すべては、智弥が夢で見た不思議な回路図から始まった。
「もう一年ぐらい前になるかな。あの高熱の中で、ぼくは夢を見たんだ……」
その夢の中で、彼は一枚の図面を目にした。なにかの回路図だった。図面の下には「優しさの回路」と書かれてあった。
目覚めたあと、彼は熱で朦朧とする意識の中で、なんとかその図面を紙に描き写した。
初めは意味のないただのパターンだと思っていた。けれど、熱が引いたあとでもう一度ゆっくり見てみると、それはきちんと作動するきわめてユニークな回路であることが分かった。
「ある種の共鳴装置みたいなものだよ。いろんな使い方があるけど、ぼくがすぐに思ったのは、これを思念の増幅器として使えないかってことだった」
智弥は幼い頃から超感覚的な能力を備えていた。予知夢、透視、精神感応。
「幸いなことに、ぼくはものすごく早熟だったからね、賢明にも、この能力はけっしてひとに知られてはいけない、ってすぐに気付いたんだ。みんな、『アトムの子ら』って小説を知っているかな? いまから半世紀以上も昔の小説だけど、ぼくらみたいな子供にはすごくためになるよ。原子力研究所の事故が原因で生まれたミュータントたちの物語なんだ。極めつけの天才児たちだよ」
小説の主人公ティモシーは八歳にしてプロの小説家になるほどの頭脳を持っていたが(もちろん、素性は隠していた)、学校の成績はオールB。まわりからは、まったく平凡な子供だと思われていた。
智弥もティモシーに倣うことにした。つまり、自分の天才も、特殊な能力も、すべて隠し、平凡な子供のふりをする。
「でも、いつか、この能力を存分に発揮するときが来るはずだって思っていたよ。とくに、あの不思議な熱病を患ってからは、いっそうそう思うようになった。これも予知みたいなものなんだろうけど、自分が進むべき道がはっきりと見えたんだ」
そしてあるとき、彼は決定的なビジョンを見た。
「世界が終わる光景だよ。文明が崩壊するんだ。先送りにされたすべての問題が限界に達したとき、いっきにカタストロフが起きる。人間だけじゃないよ。この星のあらゆる生物を巻き込む大崩壊さ。でも、それを回避する方法はある。それも確かなことなんだ。少なくともぼくのビジョンではね」
「どうするの」と子供のひとりが訊いた。
「ぼくらだよ」と智弥は言った。
「ぼくらが世界を救うんだ」
わたしたちが獲得した精神感応能力と「優しさの回路」、その組み合わせが世界を変えてゆく。
「ぼくらは受け取るだけでなく、思念を相手に送ることも出来る。気付いていないかもしれないけど、ここに集まってもらったみんなは、誰もがその力を持っているんだよ。でも、それはささやかなもので、そのままではまだ足りない。それをあの回路が増幅するんだ」
実際には、それはある種の感情の転写のようなものなのだと彼は言った。メッセージではなく、わたしたちの心の有り様を送って、相手の心に共鳴を起こさせる。
「すでに試してはみたんだ。有効範囲は半径二十メートルといったところかな? そこから急激に効果は薄れてゆく。共鳴を起こした人間は鋭い洞察を得るんだ。すごくびっくりするらしいよ。効果はせいぜい五分から十分しか続かないけど、その洞察が残した印象は強烈だ。例の至高体験や啓示とかっていうのも、たぶん同じようなものだと思うんだ。彼らもぼくらと同じように、それまでとは違った目で世界を見通すようになる。心の視力が桁違いに良くなるんだ。近視眼的なビジョンから、もっと深く広大な視点で世界を見渡すようになる」
そうするとね、と智弥は言った。
「ひとは自ずと優しくなるんだよ。誰かも言ってたように、愛が世界を救うのさ」
けっきょく、答えは初めから決まっていたんだと思う。もちろん智弥は、それを知っていた。彼の洞察は未来にまで及ぶのだから。
わたしたちは全員、その計画に協力することを決めた。
「大人たちなんかにまかしちゃいられないよ」
浩平という名の色の黒い少年が言った。彼は抜群の運動神経を誇っていた。子猿のように身が軽くて、施設の三階から飛び降りても怪我ひとつしない。
「ぼくらの未来のことなんか少しも気にしちゃいないんだからさ。大人たちは自分がいい思いをすることばかり考えてる。だったら、子供たち自身が立ち上がらなくちゃ」
「そうね」と紗智という名の少女がそれに応えた。
「なにも言い返せない森の木々や生き物たちのことも考えてあげなくちゃ。わたしたちが、彼らの代弁者になるのよ」
彼女は虫愛ずる姫君だった。虫たちの声が聞こえるのだという。時には、草や花たちの言葉さえ──
その日の夜には、全員の心が固まっていた。智弥は、それを言葉ではなく熱い感情のうねりとして受け取った。
「ありがとう」と彼は言った。
「みんな、ほんとにありがとう……」
決行までの六ヶ月間。準備は徹底して秘密裏に進められた。
わたしたちは、思念をコントロールするすべを学び、心を強化するための訓練を来る日も来る日も繰り返した。
強く思うこと。世界よ優しくあれ、と願う。身勝手なエゴや復讐心に打ち勝てるほどの強く揺るぎない思いを。すべての命を愛おしく思う。健やかな生を、穏やかな悦びを心から願う。
母が我が子に寄せる思いのように、ただひたすらに──
決行日は十二月の二十五日と定められた。
「世界中の優しさの総和がもっとも大きくなる日だよ」
智弥は言った。
「これは馬鹿に出来ない。ぼくらの力だけでは、とても足りやしないからね。この星の人間すべての思いを借りるんだよ。寛容と慈愛。ずっとむかし、西部戦線で起こった『クリスマス停戦の奇跡』って知ってるかい? それは一曲の「きよしこの夜」から始まったんだ。この歌を聴いた双方の兵士たちが、手にしていた銃を脇に置き、敵味方一緒になって酒を酌み交わし合った。ほんのいっときのことではあったけど、たしかに、クリスマスの奇跡は起こったんだ。彼らだって戦いたくはなかった。ほんとは優しくしたいんだ。でも、それを許さない人間たちがいる……」
だから、わたしちは戦場ではなく、その戦争を引き起こす人間たちのいるところに向かう。
幼い子供たちの父親や、愛する恋人を戦場に送り込む裕福な人々、この星を自分の消耗品のように考えて、好き勝手に振る舞う大人たちのもとに、わたしたちは送り込まれる。
それは高級将校であったり政治家であったり、あるいは企業家であったりする。
智弥は、現地での活動が速やかに進むよう、海外の子供たちとも連絡を取り合っていた。暗号化した図面を送って、それぞれの国でも独自に作戦を行えるようにしたところもある。
「全世界一斉に行うんだ」と彼は言った。
「大人たちがこの作戦を知ったら、徹底して潰そうとしてくるからね。初動での成果がすべてを決めるんだ。要所を押さえれば、たぶん、効果は波及していくと思う」
他国の協力者も含め、子供たちが送り込まれる場所は全世界で二十三カ所にのぼった。
でも、きっとそれだって想定したターゲットのほんの一部なんだろう。いまやこの星は、果てしなく肥大した欲望や憎しみで、あまねく覆い尽くされようとしているのだから。
大人たちの妨害を潜り抜けて、第二弾の作戦が遂行できれば、さらに効果は広がって行くのかもしれないけど、それでも……
それに、智弥は気になることを言っていた。すべての大人が心を変えるわけではないというのだ。
「共鳴が起きることは確かなんだけど、それでも心を変えない大人はいる。だからどうした? ってわけさ。骨の髄まで自分本位なんだ。だから、すべての作戦が成功するわけじゃないってことも知っておいて欲しいんだ」
秘密が漏れることを恐れて、協力してもらう大人は最小限に抑えた。
「善意のひとであってもガードが甘いと、そこが致命傷になっちゃうからね。人選は慎重にしないと」
というわけで、この施設の中でも、わたしたちの作戦を知っている大人はほんのふたりしかいなかった。
精神科医の近藤先生と、事務局の佐伯さん。
ふたりがわたしちを施設から連れ出し、空港まで運んでくれる。現地では、その国のジャーナリストや医師たちが、わたしたちをサポートしてくれることになっていた。
ふたりは初め、この作戦には反対の立場を取っていた。
「きみたちに、そんな危険な真似はさせられない」と近藤先生は言った。
「なんて無茶なことを言い出すんだ」
先生にも十歳になる息子さんがいたから、その言葉には親としての気持ちも込められていたんだと思う。
「そうよ」と佐伯さんも言った。
「危険すぎるわ。あなたたちが挙げたリストの中には、内戦状態にある国だって含まれているのよ。わたしたちがそんなところに、あなたたちを送り出せると思う?」
わたしたちは根気よくふたりを説得し続けた。
まずは、例の装置を見せて、その効果を体感してもらった。
「たしかにすごいが……」と先生は言った。
「だが、やはり……」
「ぼくらにしかできないことなんです」と智弥は訴えた。
「大人になるにつれて、この精神感応力は徐々に失われていくこともわかってます。それに、なによりも時間がない。ぼくの予感では、タイムリミットはあと半年。それを過ぎたら、もうなにをしても手遅れなんです。崩れ始めたトランプの塔みたいに、けっして、途中で崩壊を止めることは出来ない……」
「だが、あまりにも危険だ」
「それは承知してます。もっともリスクの高い国には、ぼく自身と佑樹が向かいます。ぼくらは頭も切れるし、ESP能力も際だって高い。どんな大人たちよりも、この任務に向いているんです。他の子供たちは、それよりもずっと危険の少ない場所に向かいます。たとえ内戦状態にあっても、戦場からは遠い場所だったり、あるいは、まったく戦争とは無関係な国の企業がターゲットだったり」
「そうはいっても、颯太なんかまだ十一歳なのよ?」と佐伯さんは言った。
「ひとりで海外に行かせることでさえ親ならためらうわ」
「それなら、智弥だって十一歳だよ」と颯太が言った。
「ぼくはぜんぜん大丈夫だよ。なんにもしないで世界が終わっちゃうぐらいなら、どんなに危なくたって、やれるだけのことをやってみるほうがよっぽどいいよ。それって格好いいでしょ? まるでスーパーマンみたいでさ」
他の国の子供たちとの連携や、現地での大人たちのサポートの確かさも、大きな説得の材料になった。ふたりは、不承不承という形でわたしたちへの協力を約束してくれた。そしていずれは誰よりも熱心にこの計画に労を費やしていくことになる。
時間はあっという間に過ぎていった。
智弥は九台の装置をつくることに掛かりっきりだったし、わたしたちはわたしたちで、だんだんと詳細が見えてきた現地でのミッションのシミュレーションに余念がなかった。
十二月の半ば、わたしたちは親たちの最後の訪問を受けた。
わたしのもとには誰も来なかった。初めから父親はなく、母親は自分自身の病気を抱えていて、他の病院で静養中だった。別に寂しくはなかった。智弥も佑樹もそうだったし、だからこそ、わたしたちは、こんなふうにどの子供たちよりも早く自立した人間になれたのだろうから。
親たちはなにも知らず、もちろん、子供たちはなにも告げなかった。
知ったら、彼らはわたしたちを止めただろうか? 世界の運命と我が子の試練、どちらを彼らは選ぶのか?
わたしにはわからない。ただ、もし不安に思うのなら、わたしは彼らにこんなふうに言ってあげたい。
あなたたちの子供を信じて。そして誇りに思って。わたしたちが勇気を持てたのは、きっとあなたたちがたっぷりと愛を注いでくれたから。わたしたちはその愛を携えて旅だってゆくの。
しっかりと見ていてね。ちゃんとやり遂げてみせるから。そして、還り着いたわたしたちを優しく迎えて。待っていてね。約束よ──
最後の日の夕には、ささやかなパーティーが開かれた。
小さなショートケーキとアップルサイダー。プラスチックのもみの木には赤や青の電飾が灯り、先生と佐伯さんからは少し早いクリスマスのプレゼントが子供たちに贈られた。
わたしには赤いマフラー、佑樹には大人びた革の手袋、颯太は手にすっぽり収まってしまうような小型の望遠鏡、そして旅に備え、髪をばっさりと切った美夏子には可愛らしいカメオの髪飾り。
パーティーの終わり、みんなに促されて、智弥が短いスピーチをした。
「みんな、ここまでついてきてくれてどうもありがとう。いよいよ、その日がやってきたね。もう伝えるべきことは、すべて伝えてしまったけど、ふと、いまこんなことを思い出したよ」
智弥は眼鏡のフレームを人差し指でついと押し上げ、言葉を続けた。
「クリスマスが特別な日であるのは、今年でいえば、それが冬至の三日後であるってこともひとつの理由だと思うんだ。冬至は再生の日でもあるだろ? 世界はいま、苦しみのどん底にあるけど、そこからまたふたたび浮上するのに、こんなにも相応しい日はないと思うんだ。きっと、ぼくらは闇に咲いた花なのさ。この混乱こそが、ぼくらに覚醒を促したんだ。ひとびとの絶望と不安が、一番感じやすい思春期の子供たちの心のどこかにあったスイッチを押し上げた。カチリとね。ぼくらは闇に覆われた街に、ふたたび灯をともすんだ。世界中の子供たちが一緒になって願うのさ。ぼくらが生きていくに相応しい世界を取り戻すんだ。きっとできるよ。日はまた昇る、さ。それとも、武器よさらば、かな? そしてまた、ここで会おう。メリー・クリスマス!」
旅立ち前夜
長い沈黙が続いた。佑樹はけっしてわたしのほうを見ようとしなかったし、わたしはわたしで彼から数歩離れたところに立ち、ホールの薄闇をひたすら見つめていた。
ひとつ、とやがて佑樹が低く嗄れた声で言った。
「隠していたことがあったんだけど……」
わたしはなにも言わなかった。頷きもせず、ただほんの少しだけ首を回して、彼の肩のあたりを見つめた。
「例の思念を強化する訓練があっただろ?」
「ええ……」とわたしはほとんど吐息にしか聞こえないような小さな声で答えた。
「すべての命を愛おしく思う。健やかな生を、穏やかな悦びを心から願う。まあ、そんなとこだよな」
「そうね。その思いが強ければ強いほど転写はうまくいくって、智弥はそう言ってたわ」
「うん」
それでな、と彼は言った。
「そのとき、おれはちょっとしたコツを掴んだんだ」
「コツ?」
「ああ。思いをいとも簡単に強化する方法だよ」
「そんなのがあるの?」
「あるさ」
教えて、とわたしは言った。本当に知りたいかどうかは分からなかったけど、こんなぎこちない関係のまま彼と離れてしまいたくはなかった。
「どうするの?」
お前だよ、と佑樹は言った。
「え? なにそれ? 分からないわ」
「おれは、あの訓練のとき、ずっとお前のことを考えてたんだ。おれには親がないからな。一番大事に思う人間ってことになると、真っ先にお前のことが頭に浮かんだんだ」
「それって、どういう……」
わたしは混乱していた。彼はなにを言おうとしているんだろう?
「そうだったな」と彼が小さく笑った。
「繭子って、そうなんだよな。こと自分のことになると、まるっきり勘が鈍くなる。とても精神感応者とは思えないよ」
ひどい、といつもの調子で返したかったけど、声は出なかった。胸が熱かった。わたしはちゃんと感じていた。わたしはそんなに鈍感じゃない。
「繭子のことを考えると、なんだかほんとにその思いだけで世界が救えそうな気がしたんだ。そのぐらい強いんだよ、この気持ちは」
おいで、と彼は言って手を差し出した。わたしは震える指で、その手を握り返した。
「いいかい? 感じるんだ。いま心の防御を解くからね。一瞬だけ、おれは無防備になる。そこでおれを感じるんだ」
「うん……」
「いいかい? いくよ」
次の瞬間、目映い光りのような感情がわたしの中いっぱいに広がった。
キミガスキダ。キミガスキダ。キミガスキダ……
「ああ」と思わずわたしは声を漏らした。そして、わたしもよ、と自分でも知らぬまに口にしていた。
「わたしも、佑樹のことが好きなの。ずっと好きだった」
「知ってたよ」
「そうなの?」
「繭子は無防備すぎる。悪いけど、ぜんぶダダ漏れだったよ」
「ひどい!」
そう言って佑樹の胸を叩こうとすると、いきなり強い腕に抱きしめられた。彼の匂いに包まれ、わたしは幸せだった。
「ずっと、こうしたかったんだ」と彼は言った。
「もう、友達なんかじゃいられない。恋人になろう」
わたしたちは夜明けまでずっと一緒にいた。ホールはエアコンディショニングのお陰で暖かかったし、そうでなくても、わたしの身体はまるで火がついたみたいに熱かった。
わたしは、防御を解いた佑樹の心を読んだ。そして、彼が様々な苦しみを抱えて生きてきたことを知った。孤独やいわれのない差別、大人たちの無思慮な非難。異質であることの苦しみ。しかも、彼はいつもひどい頭痛に悩まされていた。
「その頭痛はいつからだったの?」
「覚えてないな。ずっと小さかった頃から……」
「なぜ、言ってくれなかったの?」
「おれみたいな子供は、我慢することに慣れてしまうんだ。そうでなければ生きていけない」
「もう、我慢しないで」
「ああ。そうだね」
わたしたちは床に敷いたラグの上に並んで座っていた。わたしは彼の頭を胸に抱き、その長い髪を指でそっと梳いた。
「もう大丈夫よ。痛みは去るわ」
「ああ、感じるよ。不思議だな。こんなにも楽に息が出来るなんて。まるで生まれ変わったみたいだ」
「少し眠るといいわ。ほんの少し。ずっと、こうしててあげるから」
「ああ、そうするよ……」
*
朝の光が窓から差し込み、ホールが琥珀色に染まった。
佑樹は目を覚ますと、大きくひとつ背伸びした。
「さあ、旅立ちの日だ」と彼は言った。
わたしたちは立ち上がると、ふたり窓辺に並んで立った。東の空が朝焼けに染まっていた。
「なあ」と彼が言った。
「繭子がいつも掛けているペンダント、おれにくれないか?」と彼は言った。
「これ?」と言って、わたしは自分の胸を指差した。
「ああ」
「いいよ、あげる」
ハイネックのセーターの首から指を入れ、わたしは鎖のホックを外した。
「はい」と彼に差し出す。母が御守り代わりに買ってくれた十字架のペンダントだった。
彼はプラチナの十字架に唇をつけ、繭子の温もりを感じる、と言った。わたしはなんだかくすぐったくなって、思わず首を竦めた。
「これさえあれば、勇気百倍。どんな困難にだって打ち勝ってみせるさ」
「そうなの?」
「ああ、そうなんだよ。きっと世界はよくなる。おれたちは愛の子供さ」
そして、佑樹はいきなりわたしにキスをした。
思わず悲鳴を上げると、彼が慌てて顔を離した。
「まずかったかな? まだ早かった?」
「ううん、驚いただけ。今度はもっと、ゆっくり」
「わかった」
長い二度目のキスのあとで、わたしは言った。
「なんでひとに唇があるのか分かったわ。こんなふうに優しく触れ合うためだったのね……」
彼は眩しそうな目でわたしを見ると、にっこり微笑んだ。最高にキュートな笑顔だった。
彼は明るく高らかに言った。
「さあ、ちょっくら、世界を救いに行ってこようか!」
終