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 胆経の乱れから来る症状。

 脇腹痛、めまい。

 なので胆経の原穴へ灸をします。最初は熱くならない棒灸でやってたんだけど、あまり効果を感じなかったので、直接灸をすることに。やげどしないぎりぎりの温度で。

 このへんは正しいかどうかはわからないけど、日に三回(どうしてもぼくはやりすぎる)。

 そしたら、かなり症状が軽減しました。

 なので歩きに出る。
 これも、歩き始め十分ぐらいにめまいのピークが来ることが判明。これを我慢して乗り越えると、徐々にめまいの頻度が下がっていく。1時間も歩くとめまいがまったく消える。

 単純に血液、リンパ液がうまく巡るようになったからなんでしょう。

 日によって症状が違うので、この歩き始め十分の判断がけっこうむずかしい。「行ける!」と思ってそのまま進み、かなり家を離れたところでものすごいめまいや悪心に襲われパニックになることも。そうなるともう半泣きで、這うようにして家に帰ります。気温や風速も関係してそう。比較的暖かく風のない日がいい。

 距離はまだまだ短いけど、こうやってまた外を目指す。しばらくベッドに横になったままだったので、足も弱ったし。去年も「立春こえたらなんたらかんたら」って書いてあったから、毎年のこと。でも今年はまた新しいアプローチを試してみる。どうなりますやら。

 胆経は目にも来るんだけど、久しぶりにめばちこが。麦粒腫。瞼のふちにできる小さな粒。これが痛い。

 これは目が熱を持ったからなんですね。

 ただ、麦粒腫は大腸経の症状でもあるので、これは手の陽明大腸経である二間へのお灸を。かなり熱く。

 そしたら数時間でひいてくれました。過去最短で治った。すごいですねお灸。

 

 なんにしても、こうった症状がいったいどこからくるのか? ってことです。

 生まれつきの障害や病気ではない、というふうに思うのなら、これはいまの環境への不適応ですよね。

 生活習慣も含めた環境。まだ間違っているのか?

 ひととほとんど会わず、極力歩き、食事に気を付けてもまだ。

 ソローみたいに森に籠もればいいのか。

 まあ、そうなんだろうな、とも思いますが、なかなか。

 「BORN TO RUN」に出てきたタラウマラ族は、彼らがチャボチと呼ぶひとたち――トラブルを起こす者――から逃れ続けて、ついにはメキシコの秘境へと隠れてしまいます。数百年掛けて。
 
 彼らは自分たちをララムリ――トラブルを逃れて走る者、と呼んでいます。吸涙鬼だなあ、って思う。

 並外れて平等主義で、男性は女性に優しく、敬意を持つ。あまりに内気で奥ゆかしく、お酒の力を借りないと自分の妻とロマンチックな関係を築くことが出来ず、それゆえ「ビールがなくなったら絶滅する」とさえ言われている。
 利他的で平和を好み、なおかつ、異常なまでに多動――

 二昼夜掛けて数百キロを走る(700キロという記録も)。この種族の男性がシベリアで発見されたこともある。
 そこまで行っちゃたんですね。なんか分かる気がする。

 彼らのように、どこまでも逃げていく。そうすれば精神的にも神経的にも落ち着くことができるのか。

 まだまだ探索の旅は続きます。

 

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 あと、昨日子供から指摘されたんだけど、テナガザル系人間の特徴として、時間や記憶へのこだわりがある。
 こういった話題への食いつき方で、けっこうパーソナリティーが別れる。

 おおむね後ろ向き。時系列的に。

 Historyとstoryが同じ語から来ていることは、綴りを見ればすぐに分かりますよね。

 ラテン語までさかのぼると、知っている、という意味になるらしい。

 知っているということ。その人物、土地の来歴。そして物語。

 そこに価値を見る。

 知っていることに大きな意味がある。思い出。習慣。ひとや土地に懐く。

 これは保守性と関係がありそうな。

 新しい物好きであるか、古いものに愛着を感じるか。女房も畳も新しい方がいいのか、それとも一緒にすごした時間が長ければ長いほど価値が増していくのか。

 どうしても縁が切れない、捨てられない。離れられない。

 この気質の分化はやっぱり、森を出て草原に向かうか、そこに残るかという決断の違いがきっかけ?

 新しい猟場をもとめて移動していくグループ。乏しくなっていく食料にしがみつき森に残ったグループ。

 森に残ったのなら、そこを「知っている」ことは大事。どの季節になれば、どこに木の実が実るのか。植物は動きませんからね。猟の対象となる獣は移動するけど。つまり観察すべき対象が違う。

 過去にこだわるべきなんですね。記憶――思い出に大きな価値がある。習慣も大事。

 ただ「思い出」であるだけで美しいと感じてしまう理由はそのあたりから?

 知っていること、追想することに、脳が大きな報酬を与えてくれる。
 ほんとかな?

 また妄想が暴走してますが。

 あいかわらず脳はぶんぶん唸りをあげて回転してます。めまいマックス。

 こういうとき、実は高音が楽に出ます。脳の活性と高い声は相関してる?

 hiCがするっと出る。おそらく喉の筋肉をぐっと閉めることができるようにるから。

 高エネルギー。

 物理学と同じで、低エネルギーのときは世界はよく見知った姿を見せる。ニュートン力学的世界。

 でも高エネルギーになると世界はいっきに奇妙な振る舞いを見せるようになる。アインシュタイン的、量子論的世界。

 時空は伸び縮みし、粒子は曖昧な存在に変わる。

 脳の高エネルギーも一緒。

 すべての境界が曖昧になる。あくまでも主観的にってことですが。

 ないものが見え、あるはずのない音が聞こえ、すべての感覚器が、過去と現在が、夢と現が、我と彼が、生と死が融け合っていく。

 まあ言葉遊び的な相似ですが....

 それが本来的な宗教のビジョンなんだと思います。原始宗教の。

 だから言葉で伝えられるはずがない。感じるしかない。体験するしかない。論説ではなく物語。

 


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 さらに続き。

 ずっと前に書いたけど、ゴリラは一夫多妻、チンパンジーは父権的な乱婚、テナガザルは家族主義、オランウータンは孤高。動物学的にはどうか知らないけど、ざっくりとおおざっぱにそんな印象。

 これは環境が決めるんですかね。こういった戦略。人間にも一夫多妻の地域があるけど、その環境と他の環境の違いはなんなのか。ことには理由がある。

 だとすりゃ、テナガザル的人間とチンパンジー的人間の違いもそこらへん?
 森の人と草原の人。自然の中でも、とくに植物ですね、樹木や苔や草、ここに強く惹かれるのは、森に暮らしていた頃の遺伝子が強く出ているから。

 逆に草原で暮らしていた頃の遺伝子が強く出れば、あんまりそういったものには興味がない。洞窟暮らしなら、むしろ打ちっ放しのコンクリートをおしゃれに感じたりとか(ぼくも実はそう感じますが)。

 死への感受性は、こっちは生ませっぱなしってわけにもいかず、夫婦で子供が成長するまで一緒に子育てしなくてはいけないので、あっさりと死ぬわけにはいかないっていう理由。

 乱婚、生ませっぱなしなら、いつ死んでも遺伝子は残せる(確率は高い)。

 ぼくのような一番端っこにいる人間が、死への感受性が高すぎるために不安神経症に陥るのもそうなるとなっとくできる。

 感傷が死への不安を和らげてくれる進化的贈り物だという考え。感傷を嫌うひとがデカダンだったり不良大人だったりするのもそのせいなのか。

 ヒエラルキーの上昇が人生の目的であるグループに対して、テナガザル的人間は、ものごとを知ることが人生の目的。

 グループで狩りをして、ヒエラルキーに従って肉を分け合う。

 森の中を家族で探索して、食物を探す。その形態の違い。

 「自閉症をもたらす遺伝子群が、物事を解析して1つのシステムにまとめようとする性向と一緒に受け継がれている可能性がある」っていう日経サイエンスの記事があり、一方で「政治家の大半が科学音痴」という記事がある。

 権力やヒエラルキーに敏感なひとたちの集団が(平均的に見て――メルケル首相とか例外ももちろんいっぱいあるけど)科学音痴だという事実。

 なんか文章が変ですね。箇条書きっぽい。
 脳が極限まで興奮しているから。

 昨夜から手の震えと脂汗、動悸が止まらず。夢も凄まじいです。洪水による世界終末と、終末戦争の爆撃に逃げ惑っている二本立て。水と火。

 立春だからなのか、それとも高気圧がいけないのか、歯はやっと治療が終わったんですが、それがまだ尾を引いているのか...
 きっと、そのどれもなんでしょうね。少しずつ。

 肝経と胆経は五行では木で一緒に括られているんですが、肝が暴走すると胆が乱れる。
 現在の症状は典型的な胆経。

 数ヶ月ぶりに目眩がひどくなり、そうこうしているうちに左右の脇腹痛。きゅうっと絞られる感じで、内臓も反応してしまう。下痢するときのような腹痛ですね。それが頻発する。夜中にもそれが起きる。

 めまいがひどいので歩けないんですね。怖くて。それがいっそう症状を悪化させているような。

 こんかいは視覚の興奮が激しく、幻覚というのか視覚心像というのか、そんなものが起こる。

 まあ解放性幻覚のひとつなんだろうけど、暗い部屋で目を閉じると、とたんに目の前にまざまざと鮮明な映像が浮かぶ。例の神経の逆流現象。脳内ポロロッカ。

 以前からあったんだけど、たいていは数秒で消えていく。なぜか、見たこともないような美しいオブジェであることが多く、むしろこれを歓迎していた。見たものは忘れないように紙に描いておいて、いずれつくってみようって、そう思う。

 けど、今回は、これが消えてくれなかった。かなり長く続き、パニックに襲われて何度も目を瞬かせるうちに、ようやく消えていった。そんなことが数回続きました。

 オリバー・サックスの「心の視力」を読むと、ほぼ同じ現象が書かれていて、こういうのはおそらく単純幻視、要素幻視と呼ばれるものなんだろうと思う。目を閉じたまま、まざまざと目の前に世界が見えるのは視覚の心像と呼ばれてます。これが上手なひともいるし、下手なひともいる。ぼくは得意です。思うがままに目の前になにかを思い浮かべることが出来る。

 でも、勝手に起こるのは、やっぱり幻視に近いのかもしれません。追想と、追想発作の違いといっしょ。

 さらに決定的違いは、その生々しさですね。まったく目を開いてものを見ているのと一緒。しかも実際以上に「深度」があるように感じられ、手を伸ばして触れてみたくなる。

 父親は目を開けていてもこれが見えて、そこに触れてみて、はじめて実際には「それ」がないことが分かるといつも言っているので、ぼくのはその前段階ですね。

 今回のはひとつは、ガラスと陶でできたような不定形のオブジェ。すごく美しい。この世にはけっして存在しない美術品です。

 次に見たのは、光の点でつくられたきれいなグリッド。これも美しかった。思わず見とれてしまう。自分の意志とまったく関係なくそこに在る、ってことの不思議。

 オリバー・サックス自身が見ていたのも、これによく似ていて、ぼくが以前鍼を打たれたとき目の前に浮かんだ朱色の漢字(実際には存在しない文字)のようなものもよく見ると書いてありました。
 
 彼もチェス盤や巨大な都市を俯瞰しているような光景――蜘蛛の巣状に光る環状道路などを見ると書いてあったから、「対称性」っていうのは、けっこう共通項なのかもしれない。

 目を瞑っていても見える、っていう能力と関係しているんだろうと思うんだけど、ぼくは十代の頃から髪を自分で切ってます。そのときは眼鏡を外すので、ほとんどなにも見えない。指先の感覚だけでカットしていく。

 昨日気付いたんだけど、ぼくはカットしているときほとんど目を瞑ったままなんですね。そのほうが頭の後ろとか「よく見える」から。

 なんだけど、昨日は珍しく失敗して、耳の上を虎刈りにしてしまった。なので、それを隠すために人生で初めて「刈り上げ」をしました。シェーバーのような小さな電動バリカンで。

 写真載せときます。ハサミは裁縫セットに入っているような小っちゃいやつ。赤ちゃんの爪を切るような、先端が丸いの。これだと、髪をつまんでいる指を傷つけずにすむから。ずっとこれです。
 自分で髪切るひとは多いけど、自分で刈り上げるひとはなかなかいないと思う。これも視覚心像のお陰です。

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