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 とくにこのおもちゃに興味のある人もいないとは思うんですが、ぼく自身の強烈な思い入れを込めて、追加画像をアップします。銅細工っていうのは見た目も美しいんですよね。銅には曲線がよく似合う。

 ところどころに置かれた銅の球は、すべてステンレスの球が転がるとき、それに反応して動くギミック部分です。ここが肝です。見ていてすごく楽しい。時間を忘れて遊んでしまう。それこそ何時間でも。新しい小説では、ここに時計としての機能を加えたものが出てきます。球の一個一個が分や時間を表す。

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 最近の水槽。
 この左側の細い流木に生えたウォーターフェザーは、すべて胞子から発芽したもの。いっさい巻き付けたりはしてません。育ててる人はみんな気づいていると思うけど、ウォーターフェザーは、簡単に胞子から発芽する。

 手前のウォーターフェザーは、自分で焼いた陶製のベースに古い株を巻き付けて発芽させたもの。こうやっていくらでも増やすことが出来ます。成長が早すぎて形を保つのが大変なほど。ただアオミドロがすぐつく。これはもう水替えの頻度で対応するしかないですね。

 いわゆるFissidens fontanusよりも、育ててみるとちょっと大味な感じ。葉が間延びするというか。同種なんでしょうけど、やや亜種に近いのかも。

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 画面右はふつうのホウオウゴケ。これで三月目ぐらい?
 みなさんが言うように、成長遅いです。それに新芽の密度もあまりない。夢はホウオウゴケで水槽を覆い尽くすことなんだけど、そうとうな根気が要りそう。
 あるいはよくあるように、臨界を超えたら、一気に増えるのかも。水温は21度と低めにしてます。あと効果があるかどうかは分からないけど、2価イオンの鉄分をいろいろ与えてます。あとカリウムも毎日。

 自生地を見ると光はあまり要らないのかもしれません。なんにしても完全に沈水状態で育っているのを見たことはないので、こういった微妙な水圧も成長には関係してくるのかも。いくらCO2を増やしても自生している状態にはなかなか近付かない。とうぜん硬度は高めがいいんでしょうけど、それもなかなか。
 かつてショップのレイアウト水槽で、これがもっさり底床全体を覆い尽くしているのを見たことあるんだけど、それも思えば水深が10cmぐらいしかない特殊な形状の水槽でしたから、あれは限りなく抽水に近い。あるいは定期的に抽水状態をつくりだしていたのかも。今後の課題です。

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 そしてこっちはホソホウオウゴケ。現地採取。自生状態を見ても、完全沈水の群落もいっぱいあり、水槽への移行が容易なことは明白です。これもみなさんが言っているとおり。

 現地の小川の水温は10度。硬度は測らなかったけど高そうでした。
 プラケースに入れて湿らせた状態で室温の中一ヶ月ほど置き、そのあとで水槽に移しました。その時点では新芽の発芽は0。葉は採取したときのままの明るい緑。
 これを全部ほぐして、一枚一枚拡げて自家製陶ベースにテグスで巻き付けました。
 そしたら一月ほどでここまで発芽してきました。巻き付けた葉のほうはすっかり黒くなりました。
 ホウオウゴケとは比べものにならないぐらい発芽が速い。それに密度がぜんぜん違います。写真じゃ分かりづらいけど、ちっちゃい新芽が無数に隙間なく出てます。

 そのまま水槽に投下するよりも、こうやったほうが新芽の成長がいいですね。これも胞子でも増えます。
 あとは成長後の形状がどうなるか。けっこう貧弱になりやすい。やっぱりそこが課題です。光が強すぎても矮小化することがあるので、水槽の中のいろんな場所に分散して育てて比べてます。


 まあ、前回の続きなんだけど、テナガザル的人間の、けっこうこれは標準スタイルというか。
 こんなことに楽しみを見出して生きている。

  酒を一滴も飲まず、煙草も吸わず、コーヒーも紅茶も飲まない。グルメにもグルマンにも、B級グルメにもまったく興味はない。趣味は家のまわりを歩くことと植物を育てること、それとおもちゃづくり。
 旅行に行ったことは数えるほどしかないし、人生の中で自宅から100キロ以上離れたこともめったにない。
 カラオケに行ったことも一度もなく、いわゆるクラブがどんなところかも知らない。
 十五で知り合い十九で付き合い出した奥さんが初めての恋人で、35年間一緒にいます。勤めていたときも、1秒でも速く家に帰りたくて、おおむね六時前にはいつも家にいた。
 今年も、まだ身内以外のひとと誰ともしゃべっていない(店員さんと病院の先生は除く)。メールは三通だけ来ました。TVもほとんど見ないし、SNSとも無縁。車や服にもお金は掛けない。服は穴が空いたらガムテープ貼って補修しているし、靴は何度穴が空いてもテグスで縫って補修して履いてます。
 
 「な、なんてつまらなくてみすぼらしい人生なんだ……」と思うひとがほとんどでしょうけど、ここをいつも読んでいるひとは、実はそうじゃないことを知っていますよね。非チンプ的テナガザル人間には、彼らとはまったく別の世界がある。金が掛からず、仲間を必要とせず、人工的な享楽とはまったく無縁の楽しみ方。
 それにぼくは自分が美しいと思ったものに囲まれて暮らしてます。そのほとんどは自分が育て、つくったものなのですが。

 ぼくの生活は、こういったグループの中でもまたとくに極端な形だとは思います。でもまあ、だいたいみんな似たり寄ったり。

 自然への感受性が高いこととは、かなり強い相関がありそう。
 金銭やモノに対する欲がないことと、自然への親しみ。

 ぼくはよく、「自分は地球に恋してるんだな」って思います。あの感覚は恋にとても近い。
 森や土や空や水辺にたいする、あの感覚は。胸がどきどきする。切なくて、甘美で、どこか崇高でもある。

 地球と恋に落ちたら、自然を蔑ろになんかできないのに、と思います。「彼ら」が恋しているのは、もっと別の相手なんでしょう。けたたましくて、過剰に飾り立てた、そんな誰か。

 彼らも、ぼくらもあまりに自分の繁殖戦略に適合しているために、ずいぶん生物として離れてしまった。
 野生の獣なんかどうなんでしょうね。ひとつの種の中にチンパンジー的個体とテナガザル的個体がいること。

 もちろん、そのあいだのひとたちもいっぱいいる。そのときどきで、いろんな振る舞い方をする。
 だから、一方のサンプルばかりじゃいけないんですね。こういう人生のよろこびもあるってことを描いてみる。
 
 偏らないために。

 
 
 


 

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 アイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」は、2011年、2012年と映画化もされているんですね。
 初めて知った。

 まさしく選挙を睨んでの公開。

 今回のアカデミー賞でも、「ゼロ・ダーク・サーティ」が監督賞から外されるなど、映画に政治が絡む話はけっこう多い。
 アメリカは、映画が持つ物語の力をかなり強く意識しているんでしょうね。あれだけショービズが発達している国だから、その効果の研究も怠りない。

 そうやって映画を観ると、けっこう面白い。
 「TIME/タイム」なんかそうですよね。

 かなり露骨に現在のアメリカを描いて、強烈なメッセージを送っている。
 例の1パーセントのそのまた1パーセントの超富裕層と、それ以外の「貧困層」という現状。

 「トータル・リコール」もそんな感じ。

 富裕層が「悪者」という構図がどんどん増えてきた。観客が自分を投影して、カタルシスを得やすい筋書きになっている。

 良くも悪くも物語の力がひとびとに強い影響を与えている。

 受け手側の変化が送り手側の変化を促すことももちろんある。

 アメリカは音楽がどんどん「ダーク」になっている。いろんな記事にその言葉を見かけます。「かわい子ちゃん」で売っていた歌手が次々と「ダーク」に転向していく。

 あと、映画の暴力シーンがほんと増えた。一本の映画の中で使われる銃弾の数がどんどん増している。
 そのこともハリウッド映画をよく知っているひとのあいだで、最近ちょくちょく言われていることです。

 世界はどうなっていくんだろう? と思う。

 現実も物語も憎しみや対立の話ばかり。みんながそれを望んでいる? 対立したい。

 たとえば「トワイライト・サーガ」も「ハンガーゲーム」も、あるいは「ハリー・ポッター」でさえもが、「戦う」ことが物語の中で大きな意味を為している。

 人間になってどのくらい経つのか分からないけど、この「闘争本能」を、ひとはいまだに引きずったまま生きている。

 「仲間のために命がけで敵と戦う物語」

 ジェームス・キャメロンも「タイタニック」から「アバター」に向かってしまったし。

 そういう物語に心震わせる。


 ぼくは「軽度発達障害」っていうふうになってますが、これはすべの発達が遅れているわけじゃなく、選択的にある部分の発達が遅れ(遅れ? ほんとに?)、それを別の能力が補う形で過発達している。

 まあ、おおむねひとはみな足して10になるわけです。そういった意味では、誰もがある部分に関しては発達障害だし、過発達でもある。

 で、自分でも、この能力はほんとに弱いよなあ、って思うのが「闘争本能」。大嫌いです。諍い。

 あとぼくは男性だけど、「男性性」とか「父権性」が驚くほどない。それに「ヒエラルキーに対する感受性」も、びっくりするほどない。

 これが障害かどうかは知らないけど。

 無意識のうちに「集団に所属している自分」というものに強く縛られていること。

 集団への強い帰属意識。その集団の中での自分の順位。他の集団と自分の集団との優劣性。

 こういうのはみんな「美徳」とされる。強い忠誠とか、その集団への貢献度とか、「奴らに負けるな、おれたちが一番輝く集団になるんだ」というフレーズ。

 こういう感覚と父権性は、無関係ではないですよね。効率が重視され、そのための成長が個々に求められる。

 もちろん、だからこそ、人類はものすごく発展してきたわけです。

 もっと強く、の裏には、「もっと速く」とか「もっと多く」とかがあって、それがすなわち発展ですから。

 まあ、けっきょくどこに目標を置くか、なんでしょうね。
 物理学なんか、かなりいいところまで来ているし、「もっと遠く」でも、そろそろ火星にひとを送ろうか、なんて言い出している。人口も、めちゃくちゃ増えたし(二十世紀初めは15億しかいなかった)。

 ただ、それが「拙速」じゃあ不味いんじゃないかってことですね。
 発展が、多くの人間たち(動植物もです)の痛みや苦しみを踏み台にしてたり、本来行けるはずのところに行く前に躓いてしまったりしては、それはよくない。

 だからバランスが大事。
 母権的な自発的互恵社会だったら、発展は遅いかもしれないけど、しっかりと気遣いの出来た、地に足の付いた世界になっていたはず。

 人間だから、一方ということはなく、このあいだのどこかに、比較的みんなが満足できる着地点があるはず。

 ほんとは。

 でも、いまはそうなっていない。最悪、壊滅的な後退が生じるかも、ってところまで追い詰められてる。

  
 やっかいですね。ヒエラルキーとか、競争意識とかって。

 ぼくはこのあたりの感覚が不感症になっているから、ある意味、この社会においては「部外者」なんですね。
 傍観者であり、別の星から来た別の心を持った訪問者みたいなものでもある。

 前にも書いたけど、チンパンジー的社会にうっかり紛れ込んでしまったテナガザル的人間とも言える。

 この社会性とか、ヒエラルキーの感覚っていうのは、その集団の中にうまく収まり、しかもできるだけ上に行くことで、より多くのカロリーと、より多くの生殖の機会を得る、っていうのが本来的な目的ですよね。

 生きる上での目的がそこにないぼくが、食べることにさほど興味がなく、徹底した家族主義であることは、なんか納得がいく。

 いつも思うんだけど、多くの男性たちが漠然と「モテたい」というとき、それは不特定多数の女性から好意を持たれたいということを意味しているんだと思うんだけど、テナガザル的人間にはその感覚がない。

 このへんは、ほんとに一般のひとから見ると異星人的だと思います。どの創作物を見ても、男はモテたがり、みたいな文脈でストーリーが進んでいくから。

 われわれは、非常にせまい異性に対する嗜好を持っていて、そのたったひとりの相手を見つけると、ただそのひとだけから好意を持って欲しいと願うわけです。

 その相手もまたヒエラルキーに関する感覚が未発達だから、たとえこちらがヒエラルキーの下の方にいても、まったく気にしないわけですね。たで食う虫も、じゃないけど、ちゃんと組み合う相手は用意されている。

 むしろ、自分を飾ろうとする、実際以上によく見せようとする、プライドが高い男性を敬遠する。

 アホみたいに馬鹿正直で、自分の欠点とかも無防備に晒している男性に、つい惹かれてしまう。
 ヒエラルキーに無縁であるから、他人を利用したり、自分の権利に敏感であったり、金銭欲や物欲が強かったり、攻撃的であったり、上昇志向が強かったりといった男性には魅力を感じない。

 そうやってテナガザル的家庭を築いていく。つがったら一生離れずに、ともに協力して子供を大事に育てていく。

 自分の伴侶が最高であるかのように感じ(客観的に見ればそうでなくても、脳にそのような回路ができあがってしまい、そうとしか感じられなくなる)、他の異性に対する回路がオフになる。

 これも遺伝子の戦略なんでしょうね。テナガザル的省エネ戦法。多くの遺伝子は残せなくても、少しの子孫を確実に残していく道。
 オス同士の争いとも無縁。争いや不特定多数との繁殖に備えて、多くのカロリーを摂取する必要もない。

 とうぜんヒエラルキーとも無縁。集団への帰属意識も無用。だから自分の属する集団と、よその集団とのあいだに、あんまり価値の違いを感じない。どっちも同じように思える。むしろこっちの集団の他の個体よりも、向こうの集団の中にいる数少ないテナガザル的人間に共感を覚える。

 他のオスたちがいがみ合っているのを端で見ながら、お互い目を見合わせ「まいったねえ」みたいなアイコンタクトを交わす。

 あまりも、あまりも、このような「戦略」に見事に適合しているために、「これがほんとに『発達障害』なのか?」といつも不思議に思ってしまう。

 集団に帰属することに無関心なら、コミュニケーション能力が低いのは当たり前だし、他者との繋がりに積極的でないのも不思議じゃない。それを自閉的と呼ぶのは、あくまでも「向こう側」から見てのこと。向こうが圧倒的多数なので、当然そうなるんですが。

 こうなると、「見下されること」も別に平気なんですね。むしろ、そのほうが楽だったりする。
 どんどん自分からヒエラルキーの(これもけっこう仮想的なものだったりするけど)下へと降りていく。

  人前で恥をかくことも別に平気。というか、一般的な「恥」はわれわれの恥ではない。

 みんなから舞台挨拶とか講演とかで、よく緊張しませんね、て言われるんだけど、これもそのせいだと思います。あの場面での「失敗」というものがぼくにはないから。ありのままの自分がそこに立って、そのとき思い付いたことをしゃべれば、それでいいだけだから。

 度胸があるわけではなく、その場に立ったとき考えることが、ほかのひとと違うだけです。
 だもんで、毎度「失敗」します。 ひとからは、「あんなトンチンカンなこと言ってる」と失笑される。(仮想の)ヒエラルキーをまた下がるわけですが、実はぼくはそのゲームに参加していない。

 ぼくの伴侶となるひとは、「一般的な価値観でない、ちょっと変なひと」が好みなのだから、この失敗はむしろ加点になる。

 「失敗」は積もり積もって収入の減少に繋がるかもしれないけど、多くの異性からもてるために飾る必要もないから、そもそもそんなに取り分は必要としていない。

 男としてのプライドもない。邪魔なだけです。どんどん譲ります。

 これも前に書いたけど、狭い道で対向車にどんどん道を譲ると言ったら、ある女性ライターさんが「大人ですねえ」って言ったんだけど、子供とか大人とかは関係ないです。むしろチンプ的であるかテナガザル的であるか。

 社会性の達人であるひとたちは、道での肩のぶつかり合いですね、あれにかなり入れ込んでしまう。
 譲ったら負け。自分の権利を侵す奴はけっして許さない。おれのプライドが許さない。この道はおれのもんだ。

 こういうのは大変です。プライドゆえの不寛容。「異星人」のぼくらから見ると、これはもう不条理です。

 ここまでは行かなくても、多くの人たちが、多かれ少なかれこれに近いことをやっている。

 自分の考えをひとに押し付けることもそうですね。あと権力欲なんかもそう。テナガザル的人間にはないことです。

 こういった欲求から生じる不寛容が世界を埋め尽くしている。

 ここのところ、こういった話をよく書くのは、新しい小説が、「優しいこと」が物語の中心になっているからです。

 寛容である。受容する。相手を認める。肯定する。自分の場所を譲り、取り分を分け合う。気遣い、相手の幸福を願う。ぜんぶ「優しい」。


 弱い者をいたわり、弱い者を、ただあるがままに肯定する。きわめて母権的です。
 ぼくはだから、こっちがわの一番端っこにいる人間です。というより、もうアウトサイドにいる感じ。病理的レベルのナイーブさですね。一般のひとには受け入れがたいかもしれない。

 でもまあ、同じ地球の上には、こういう猿もいるってことを示せればいいわけです。

 サンプルですね。いつだってぼくの小説はそうです。


 


 


 


 

 

 

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 ころがりおもちゃ。
 レールは銅です。台座は9×25cm。玉はステンレス。

 ほんとは動画で載せたかったんだけど、ここはもうずっと動画対応しないままなので写真で。

 座っている真後ろにある本棚の中に収まっていて、ちょくちょく転がして遊んでます。
 自動切り替えになっていて、ふたつのコースで遊べるんだけど、どちらも成功率が低く、つい意地になって成功するまでやってしまいます。3~5回に一回ぐらい?

 ずっと調子が安定してて、やっぱり歩くのがいいんだろうな、なんて思っていたんだけど、ここに来て、また一気に状態が悪くなり、じゃあ、どうすればいいのさ? って感じです。

 年明けぐらいに、連日三十キロ歩いてみたんだけど、二十キロのときとあんまり変わんない気がしたので、「これなら毎日四十キロ歩くことも可能なのでは?」と思い始めている自分に気付き、そこでブレーキを掛けました。

 ぼくはなにかに手を染めると、つねにインフレーションを起こすんですね。やり過ぎる。
 大型バイクに子供用自転車のブレーキつけて走っているようなものです。やたら加速はいいんだけど、止めるのが下手くそ。

 身体壊すまでやってしまう。
 なので、今回は意識してセーブしてみたんだけど、逆にそれがいけなかったのか?
 身体や脳が要求するままに振る舞ったほうがいいのか?
 
 わからないけど、もしかしたら奥歯の銀の詰め物が取れたのが原因なのかも。
 小学校ぐらいのときの治療だけど、四十年経ってさすがにボロが来た。
 これで噛み合わせが微妙にずれ、それが神経に障っている。

 母親の重度の鬱も、きっかけは歯列矯正だったから。
 まったく平気なひともいるし、たった一本のずれが神経を大きく乱すひともいる。個人差はすごく大きい。
 おおむね、ふだんから神経過敏のひとは、歯の治療はじゅうぶん気を付けた方がいいです。小さな差違、違和感に脳が必要以上に強く反応してしまうから。目の細かいセンサーは便利なことも多いけど、こういうときはとてもやっかいです。

 過覚醒ですね。重度の。

 眠りがとても浅く、夢と現実の区別が弱い。明晰夢に近い感じ? 意識としては一晩中おきているんだけど、そのあいだに何十もの夢を見る。

 猛烈な勢いで夢を見ます。質も完全に違う。

 脳が夢を要求している。過剰な興奮を逃がすために、過剰な夢を求める。
 
 存在感が増しているんだけど、「リアル」とは違う。現実という意味でのリアルとは決定的に違う。

 「この世界ではないとこか」
 なにもかもがまったく同じ風景でも、決定的にこの世界とは違うという感覚。

 毎度のことながら、なんなんでしょうね。こういった夢はやたらと尾を引く。

 目覚めても、一日中夢の追想発作に襲われて、現実が浸食される。

 歩くこともそうだけど、夢も、ようは身体の恒常機能。過度の興奮を逃すための安全弁。

 なので、無意識レベルで、どうしてもそれを求めてしまう。夢に耽溺する。

 お酒とかと一緒かもしれない。そんな感じ。夢に溺れる。

 溢れる感情を逃すための夢だから、ぼくの場合、やっぱり「愛」の夢は多いです。

 基本的に愛情過多なんでしょうね。夢にもそれが反映される。

 あと前にも書いたけど、どうにもすごいなあと思うのが、「なりきり」機能。

 五十歳の妻子持ちといういま状況がいっさいないことになって、十代の恋を繰り返す。

 あれは、まいど不思議。夢はあえて記憶喪失になることで、さまざまな「初体験」を夜毎与えてくれる。

 幾つもの人生をひとよで生きることも。

 その鮮やかさ、瑞々しさに溺れてしまう。

 そして、目覚めたあとも、ずっと一日中夢の余韻に浸っている。あるいは、まったくなんのきっかけもなく蘇る夢の断片に胸がかっと熱くなる――これは、過剰驚愕症によく似ています。

 これと同時に、ぼくの基底音――不安ですね。この夢も多い。
 自分が死ぬ夢もけっこうよく見ます。これは主観的には現実だから、すごく消耗します。なんだか死んだような気分になる。当たり前ですが。

 死のその瞬間まで、意識が明晰なままであることがほとんどなので、あの「覚悟」は壮絶です。数秒後に自分が死ぬと自覚していて、その瞬間を待つあの気分。

 幸いなことに、これはそんなに頻度は高くない。なんかこれも鹿威しみたいに、ある程度たまって、それを一気にはけるとしばらくは大丈夫、みたいになってるのかも。

 そして明け方は、必ず解放性幻聴ですね。ここ数日、ずっと続いている。もとは金属的なクリック音だけだったんだけど、これもずいぶんバリエーションが増えました。あんまり発展して欲しくないんだけど。 
 

 あとまあ、いま思えば、年末年始で食生活が乱れましたね。おせち料理ってやつ。

 ぼくは伊達巻きとくりきんとんが大好きで、これをけっこう食べた。

 市販のものは砂糖が使われているので、これが神経に悪さしたのかも。

 精製された砂糖は不純物のない化学構造なので、けっこうダイレクトに来るんですね。
 まあ、アルコールやドラッグみたいなものです。ぼくにとっては。 いつもは、ほぼ100%避けているんだけど、正月だけはどうしても。

 ぼくは自分自身が祭りみたいなものなので、いっさいの「ハレ」を遠ざけている。
 一年中、毎日同じように暮らし、いっさいのメリハリをつくらない。そうしないと、すぐに神経が暴走を始めるから。

 正月も他の日と同じように振る舞う。ずっとそうしていたのに、ちょっと油断があった。歩くことでかなり自律神経が整えられたような気がして、どこかに「大丈夫かも」って思いがあった。

 また、一からやり直しですね。

 

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薄明光線

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 立ち込める靄と落陽の薄明光線。こういう時間が好きです。

 前々回に書いた共和党の選挙戦なんだけど、あのとき、副大統領候補のライアン氏が演説で手に掲げていたのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だったんですね。これも物語。
 共和党を支持する富裕層のバイブルみたいなものです。彼らもまた「物語」の強い力に気づいている。
 
 内容はここでは書きませんが、あれって、ほんと例の「獅子は千尋の谷に我が子を突き落とし...」ってやつだなあ、って思います。父権的なんですね。アイン・ランドは女性ですが、父権的、母権的であることに性別は関係ありません(傾向はあるだろうけど)。ぼくは圧倒的に母権的ですし。

 まあ、物語です。いつでも。
 なにを選ぶのか。それを見れば、その集団の行く末が見えてくる。

 ここのところ立て続けに「ベアフット・カレッジ」のことを目にするんだけど、創設者のサンジット・“バンカー”・ロイは、なぜ、女性を生徒に選ぶのか、と訊かれて、「男たちは自分のことしか考えない。技術を身に付けると、さっさと貧困の村を捨てて、高給が見込める都会に行ってしまう。だが女性たちは村を見捨てない。自分が身に付けた技術を村のために活用しようとする」と答えてます。

 前述のティーパーティー派と、ベアフット・カレッジ。
 ものすごいコントラスト。

 ちょっと前に、キンドル・ホワイトペーパーを買ったんですが、自分の小説の推敲にこれを使います。

 ぼくは書き上がったばかりの(あるいは途中の)小説を家族みんなに読んでもらい、感想を聞きます。

 PCはぼくが使っているので、家族は印刷されたものを読むんだけど、紙とインクがもったいないなあ、といつも思ってたんですね。推敲を重ねるたびに、また印刷して読んでもらうこともあるし。

 それに八十近い父親は弱視と白内障で、かなり活字が読みづらくなっている。

 ぼく自身も、ベッドで寝転びながら、書いた文章をざっと読み返すことができたら、じっさいの読書体験にかなり近い状態で自分の小説を俯瞰することが出来る。そのときは、できるだけ目が疲れない方がいい。

 とうことで、まずは目が疲れない電子インク。それと活字の大きさやレイアウトを調整できるもの。(ホワイトペーパーは活字を照らすライトの光量を調整できるので、それも読みやすさに大きく関係してきます。まあ、ぼく自身は普通に本を読むときのように光量をぎりぎりまで落として、スタンドの灯りで読んでますが)

 あと、手に持って軽いこと。これも大事。

 で、ここからは「推敲」のための必須項目。
 まずは、テキストデータを簡単に取り込めること。これがまず一番。キンドルはPCの中のテキストデータをメールで端末に送るようになってる。USBでも取り込めるんだけど、メールで送るメリットは、テキストデータをキンドルのフォーマットに変換してくれるってところ。キンドルフォーマットになっていると、校正とかに便利なんですね。

 誤字なんかがあったら、そこを指で触るだけでマークしてくれる。で、そのページに栞も付けられる。
 まあ、あとから「一覧」を見れば、どこにマークがあるかはすぐに分かるんですが。

 気になった場所には「メモ」も書き込めるから、このへんは紙と一緒。

 テキストデータのままでもできなくはないんだけど、操作性が悪い。

 そうやってみんなに読んでもらって、あとからぼくが見れば、どこを直せばいいのかすぐわかる。
 あやしいときは、その言葉に触れれば辞書に飛ぶので、確認もすぐにできます。

 だから、ぼくのような書き方をしている作家にはすごく便利。紙とインクの大幅な節約になるし。
 読む方も、A4コピー用紙の束を渡されるとけっこうたいへんなんですよね。まず重いし。

 けちって、けちって、フォントのポイント落として、余白なくして、段組にして、しかも裏表両面印刷で読んでもらっているんだけど、それでも数十枚にはなるから。それに、こうするとすごく読みづらいし。

 キンドルなら、通勤や通学の途中に読んでもらうことも可能です。
 
 何種類かの電子書籍リーダーを比較したんですが、そのすべてができるのがキンドルで、まあ値段も手頃だと。

 ほんとはテキストデータも縦書きで読みたいんだけど、それにはちょっと一手間余分に掛かるんですね。
 PDFファイルにするとか、そういった。

 でも、まあ横書きでもそんな違和感はありません。書いているときも横書きですし。


 それで、ここからが書きたかったことなんだけど、ぼくはここに単行本として出版されていない自分の小説を全部入れました。

 奥さんが暇つぶしに読むために。

 十年もやってると、けっこうな量の短編や掌編がたまってきます。それを彼女はソファーに横になりながら、すごくくつろいだ感じで読んでる。

 このへんは、作家ならではの体験ですね。キンドルのこういった使い方は。市販の電子ブックは入れずに、自前の小説で家族を楽しませる。これこそ究極の自炊?

 そしたら、先日、彼女がキンドル読みながら、鼻すすって泣き始めたんですね。

 そのとき読んでいたのは、これから出る予定の「世界の終わりに好きなひとに会いにゆく」って物語です。
 
 彼女はもう五回目ぐらいですね。これを読むのは。推敲にずっと付き合ってもらったので。ぼく以上に通して読み返している。

 これまでも「感動して泣いた」とは言ってくれてたんだけど、その姿を直接見るのは初めて。いつもは、ぼくがいないところで読んでいたので。このときはたまたま、すぐ近くにぼくもいた。

 で、思ったのは、「こういうのって、なんだか官能的だなあ」ってことです。

 自分の為したことによって、相手の感情を大きく揺さぶり、ある種のクライマックスに導いていく。それを間近で見ている。

 なるほどなあ、って思ったのはミュージシャンたち。これをいつもあのひとたちは味わってるのかあ、って。
 
 作家なら「朗読」ですかね。そうやって、会場にいるひとたちの心を揺さぶって涙に導いたなら、きっとミュージシャンと同じような感覚を味わうはず。

 なんか妙に新鮮でした。こっちまでどきどきしてくる。なので、彼女が読み終わるまでは、銅像のように固まったまま動けませんでした。彼女の没入感を乱したくなくて。息もそっとする感じ。

 彼女は「もう駄目」と言って、途中で一回読むのを止めてしまいました。泣きすぎて続けられなくなった。
 で、五分ぐらい休んで息を整えて、また先を読む。

 「いまあいよりもこっちのほうがいいかもしれない」と彼女は言ってました。好みもあるから、そのへんは一般的にどうなのかは分かりませんけど。

 そうなんですよね――好み……

 彼女はぼくに負けず劣らず活力がある女性です。体育大出てエアロのイントラ30年ですからね。

 ふたりで二時間かけて歩いて夕焼けを見に行く。寒風吹き荒び、あたりにひとけなんかまったくない中で、はしゃぐわけです。ふたりの長い影法師みながらぼくが「チョコべー」って言うとけらけら笑います。

 あるいは別の夜、ふたりで田んぼに出向いて、氷点下の地面に仰向けに並んで寝転んで流れ星を探します。
 ほんと寒くて、十五分とかで冷え切ってしまうんだけど。
 
 いい大人が、こういったことを厭わずに付き合ってくれる。それを楽しいと感じる。
 
 その活力の高さですね。内分泌。
 
 それが感受性となり、ぼくの小説を読んで「すごくいい」と感じてくれる。

 
 あとガジェットネタついでに言うと、ぼくは音楽をiPod touchで聴いてるんだけど、あれにはスライドショー機能が付いているんですね。

 で、奥さんの写真をiPod touchのカメラで撮って取り込んだら、ちょっとセピアとかに加工して、それをスライドショーで見る。出逢ってから結婚まで、十五歳から二十五歳までの写真を十枚ぐらい。

 BGMも流せるんだけど、それをぼくはブレバタの「マリエ」にしてます。

 そうすると、彼女とは結局うまくいかなくて、ふられてしまった男の気持ちになって写真を見ることができる。

 これがすごく面白い。なりきりごっこ。

 これを岩崎宏美さんの「ドリーム」とかにすると、今度はすごく好かれていることになって、別の感覚になる。

 おすすめです。すごく面白い。奥さんでも誰でもいいんだけど、相手をなんか新鮮な気持ちで見ることができます。

 あと、なりきりごっこで思い出したけど、ぼくは誰もいない田園地帯を歩きながら、自分の小説の主人公になりきるんですね。先述の彼女に会いにゆく青年になりきって、「待っててね、きっと会いに行くからね」とか声に出して言ってみる。

 待っているのは奥さんて設定に変えて、名前を呼んでみたりもする。
 そうすると、ほんとそんな気分になってきて、無性に泣けてしまう。
 思えば、この「なりきり」は子供の頃から得意で、心の底からぼくはなりきります。一気にその状況に入り込める。だから泣くシーンでは、ぼろぼろ涙流せる。けっこうアクター向きかも。

 そうやっていつも宇宙船の船長とかになってひとり遊びしてました。

 小説書いているときも、ずっとそれです。ぼくは声に出して演じながら書いているので、そばで聞いている奥さんとかはいつも笑ってますが。女性のときは女性の声でセリフ言いますし。
 やってることは子供のときからずっと変わってないってことです。

 


 

 

 

 

 

 


 

 

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