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 おそらく掲示板はもうお休みでしょうからこちらに書きます。

 全人類が『愛と調和』を基に解決するまで話し合いをやめない――

 まさしく、その通りだと思います。TVドラマとか映画とか、すごく多くのひとに影響力のある媒体が、こういったことを広めていくべきなんでしょうけど、実際は……

 前にも書いたけど、「論説」よりも「物語」のほうが浸透する力が強いんですね。「体験」だから。
 
 憎しみの物語が広がると、それがその集団の基調となる。潜在的に。自分が所属する集団以外の者を排せよ、ってなっちゃう。正義は我にあり。だって敵は悪で、仲間の利益はぜったいに善なのだから。
 こういった物語ばかり。

 功利的全体主義というか。
 
 そうすると集団のメンバーにも同じ考え方が適用される。強く在れ、賢くあれ。だって、それは、集団を強化してくれるから。弱い者、賢くない者は、なんとしても成長せよ。そうやって同調圧力を掛けてくる。

 たしかに、そうやって集団を構成する者たちが、「強者」になっていけば、その集団は強いです。拡大し、富み栄え、他者を圧倒する。

 ちょっとした共時性というか、マトリックスAさんの書き込みがある少し前に、何十年ぶりかで小松左京さんの「継ぐのは誰か」を読み返したんですね。父親が買ってきて、それを中学生の頃に読んだんだけど、いま読むと、また違うところに目が向く。

 中に出てくる賢者が、権力者、為政者っていのは「力」で、学者は「智」である。この二つの原理を超えたところに「すべてを肯定する力」すなわち「愛」がある、みたいなことを言っていて、それをいまの人類はまだ手にしていない。

 で、これはまた別のとき、治療院の待合室に置いてあった本に書いてあったんだけど(たしか河合隼雄さんと有名な霊長類学者の方の対談)、人類は霊長類としてはチンパンジーに近く、父権的である。チンパンジーの群れの構成はオス1に対しメスが3で、それがオスの子殺しとかヒエラルキーとかのもとになっている。

 対してニホンザルは母権的で、すごく寛容なんですね。他の群れの者が来てもウェルカム。出て行くのも自由。

 人間はニホンザルよりはチンパンジーに近い。つまり、生物としてかなり根の深いところに、排他的であったり、ヒエラルキーに対しての感受性の高さというものが織り込まれている。

 ついこないだの日経サイエンスだったと思うけど、お母さんのお乳っていうのは、男の赤ちゃんに与えるときのほうが、女の赤ちゃんに与えるときよりも濃度が何倍も濃いんですってね。

 つまり、強い男に成長させたほうが、こういった一夫多妻制の動物では自分の遺伝子を多く残せるから。

 こうやって「生理」のレベルでも、人間はオスにヒエラルキーを押し付ける。他の者に負けるな。

 でも、人間は猿よりはいろいろと考えることが出来る。予測推論する力がきっと猿よりはあるはず。
 自分の死をずっと意識しながら生きていくこととかもそうだし。

 賢くなれば、なにかに気づく力が強くなれば、欲や争いが馬鹿らしいことだと悟るはず。(真の)権力者は戦争でもだいたい「Win-Win」なので、彼らが考えを変えることはまずないでしょうけど、それ以外の人間のほうが、つまりは傷付く側にいる者のほうが数千、数万倍も多いのだから、あとは考え方次第ですよね。

 愛っていうのは、だから賢さでもあるんですね。


 
 

 

 

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過敏症は継続中。一週間ぐらい不整脈が止まらなかったんだけど(期外収縮が数秒おきに一日中)、ここにきて治まりました。

 過剰驚愕症が高まってくると、例の「幽霊の正体見たり枯れ尾花」状態になってくるんですね。
 なにを見てもひとのように感じてしまう。三つのドットがあれば、もうそれがひとの顔なわけです。

 防衛本能みたいなものと関連してるんでしょうが、それが亢進して、ある種のパターンに過剰反応してしまう。

 歩いてても、木立の影とかにひとがいるように見えて、ドキン! と心臓が脈打つ。錯覚と過剰驚愕症のセット売りです。ないものに怯えている。無駄なエネルギー消費ですね。

 驚愕症は驚き、不安の過剰反応ですが、この状態のときは、全方位的に感情が亢進するんですね。
 なにもかもが大袈裟になる。

 感じ入りすぎる。痛いほどに感じてしまう。 

 でもやっぱりノスタルジーみたいな感覚が一番強い。
 なにを見ても、甘美で切ない感覚に胸が満たされ、心臓がカッと熱くなる。

 夢ではやっぱり空を飛んでます。こないだ初めて、奥さんと一緒に空を飛ぶ夢を見ました。
 
 歩きは継続中。
 毎日二十キロ歩き続けると、「毎日二十キロ歩くのに適した身体と心になる」。当たり前ですが。

 ひとはすべてみな、そうやって身体を適応させていく。動かず飽食を続けていればそれに適した身体と心になる。

 行きすぎれば病みます。当たり前ですが。

 掲示板にも書きましたが、安っぽい人工香料に囲まれて暮らしていれば、安っぽい身体と心になる。

 掲示板にはこう書きました。

 『――生きものは最初、自分のまわりの化学物質を毒なのか栄養なのか判断して、それが最初のセンサーとなった。人間にとっても一番基本の世界に対する判断基準なんですね。それが現代人のほとんどが損なわれている。人工香料に囲まれて暮らしてますからね。脳が混乱している。だから、それをすべて遠ざけて、自然本来の香りに意識を向ける。脳の嗅覚野がリセットされれば、世界を弁別する能力が帰ってくる。とくに倫理観、審美眼、このふたつが蘇る』

 嗅覚は倫理です。正しいか、正しくないか。
 「鼻が利く」とか「どうも臭うな」とか、ひとはなにかを判断するときの表現に嗅覚を使います。むかしのひとは分かってたんですね。感覚が鈍麻した現代人は、たいていのこういった表現を修辞とみなしますが、ほんらいは逐語的な意味合いを持っていたはずです。

 伽羅の香りはお釈迦様の言語化できない高度な概念を表している、と言われてますが、この言語化されていない概念を香りを通してひとが受け取り、そのことによって脳がある状態に変化するのだとしら、下品で貧弱な人工香料をかぐことによって、やっぱりひとの脳はそのように染まっていく。

 あらゆる食べ物、飲み物、衣服、場所に人間がつくり出した歴史の浅い人工の香りが浸透しています。

 そうやってひとびとは弁別機能を失っていく。

 企業にとっては都合がいいわけですね。無価値なものを、まったく必要のないものを、ありがたがってお金を出して買ってくれるわけですから。企業は消費者に覚醒してほしくはないはずです。

 食べ物、ブランド、音楽、物語、ゲーム、SNS――

 ほんとに自分の貴重な時間とお金を(あるときには健康をも)差し出して、欲すべきものなのか。

 人生がたかだか70万時間。いま二十歳ならその1/4は使い終わったわけです。

 できれば、その限りある大事な資源を、価値あるものに使いたい。

 すごくよく見るのが、赤ちゃんをベビーカーやだっこで散歩させているお母さんが、じっと携帯電話の画面を見ている姿。

 赤ちゃんが赤ちゃんでいる時期なんてほんのわずかなのに。赤ちゃんが一心に母親の顔を見つめてくれる時間なんてほんのわずかなのに、お母さんはその時間を携帯ゲームや、どうでもいいメールや、他人がなにを食べ、どこに遊びに行ったのかとか、そんなどうでもいい情報を得るために使ってしまっている。

 価値のあるのはどっちなのか?

 みんな鼻が利かなくなって、企業のたくみな誘導に乗ってしまう。

 コマーシャルとかで、「もうみんな知ってるよ」「みんなはまってるよ」って、言うけど本当なんだろうか?

 大切なものを計る基準をひとまかせに、さらには企業まかせにしてしまっているから、こんなコマーシャルが成り立つわけですよね。

 なんだかものすごいことが起きているのに、誰も気付かずにいるような気がして、かなり怖いです。

 「おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない」

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』です。

 あとになって、「ああ、あのときだったんだな」って気づく。でも、そのときにはもう。

 最初にカナリアのように鳴き立てるのは、おそらくはぼくのような過敏症の人間たち。
 でも、いくら言い続けても、誰も耳を貸そうとしない。

 大事なのは、もうちょっとだけ覚醒レベルを上げることなんですね。鼻を利かせる。
 
 先日、BBCだかどっかのドキュメンタリー見てたら、アメリカの共和党と民主党の選挙戦の裏側の話が出てきて、共和党側の、富裕層の減税に力を尽くしていたあるロビーストが、ここで心を変えて反対陣営に移ったんだけど、その理由が「悟りを開いたから」みたいに言ってたんですね。修辞的に取ることも出来るけど、もしかしたら彼はほんとに東洋思想に触れて、なんかそういった訓練をやったのかもしれない。

 で、覚醒レベルが上がったら、ふと気づいてしまった。欲って、ろくなもんじゃないな。
 単純に脳内の神経伝達物質の質や量が変わっただけで、自分のなすべきことを180度転換させた。

 賢くなった。善も悪もなく、ただ賢者と愚者がいるだけとよく言うけど、ほんとそんな感じ。

 まずは匂いと食事です。それと歩くこと。

 それを変えると、血中の神経伝達物質の量や質が変わる。

 そうすると、センサーの目が細かくなって、いまよりずっと弁別能力が上がってくる。

 ちゃんとものが見えるようになると、他人の評価や押し付けてくる価値観に、まったく惑わされなくなる。

 実に単純です。それだけのこと。


 掲示板の話題からはずいぶんずれたかもしれないけど、これはぼくが自分でやってみて、おおいに効果を感じたことです。ほんとによくものごとが見えるようになった。 

 ぼくはずーと子供の頃から「お前は間違っている」って言われ続けてここまできたけど、じゃあ、それで不幸か、って言われれば、むしろ、そのおかげですごく幸福なんじゃないかって思います。

 奥さんに気に入ってもらえたこととか(彼女は『変わったひと』が好きなんです)、作家になれたこととか、いろんなジャンルでトップのひとたちと仲良しになれたこととか。

 もし、ぼくがひとから言われたことを鵜呑みにして、じぶんは間違ってる、駄目な人間なんだ、って思うようにして生きていたら、きっといまとは違う人生になっていたと思います。

 自分の人生はけっきょく自分で生きるしかないんだから。

 
 
 
 
 
 

 


 

 


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掲示板の続き4

 いろいろ書いてきてなんなんですが、ふと昨日、神経の過敏性はむしろ一年前よりも亢進しているんじゃないか、って思ったんですね。昨日は過剰驚愕症がひどかった。

 ひとは癖みたいなものがあって、自分の傾向を増長させてしまう。やすきに流れるときってそうなんですね。

 先生からはやりたくないことをやれ、って言われます。そうすると「癖」が矯正される。

 奥さんからは「ジャンクフード食べて、ほとんど歩かず、TVのくだらない番組見てゲラゲラ笑ってれば、そんな過敏症すぐに治るわよ」っていつも言われるし。

 なのかもしれないけど、いまはとりあえず、これを続けていこうと思ってます。心や神経はいっそう過敏になっていくのが分かるんだけど、心身症ですね、肉体の不具合がずいぶん軽減されているから。

 ほてり、耳鳴り、目眩、肋膜痛、胃痛、腰痛、不整脈、頭痛、肩こり、それに不眠も。頭の張りだけ残っているけど、これも前ほどじゃないし。例のスキャナーズみたいにバーンって頭が破裂しそうな感覚ですね、あれはなくなった。おそらく一番は血流が増したこと。日に四時間近く歩いているわけですから、起きているうちの約1/4は、安静時よりも血流量が上がっている。これが効いているのだと。

 エピジェニック的に言えば、いろんな遺伝子のスイッチがオンになっている。歩くのに適した身体に遺伝子レベルで変化してきている。
 
 あと、朝日を浴びながら歩く。これもいろんな遺伝子スイッチがオンになって、ホルモンが放出される。
 セロトニンもそうだし、男性ホルモンもそう。朝のあの波長の光がいい。勤めている頃は黙ってても通勤で浴びてたわけですが、こういう仕事だと、自分から外に出て行かないとなかなかそうならないですからね。

 夕飯を食べ、お腹がこなれるのを待ってから、また夜のラウンドです。
 これはまた「補陰」という効果がある。極陽のぼくは、もう子供の頃から夜の闇が大好きだった。中学の頃は、毎晩のように夜の町を走ってましたから。出来るだけ誰もいないところを選んで。

 お気に入りは、広大な住宅開発地ですね。夜は誰もいない。ここを走っていた。

 いまは田園地帯を歩きます。真っ暗と言いたいところだけど、やっぱり外灯の灯りは届きます。完全な宵闇は首都圏ではいまや贅沢品です。

 まあ、それでもひとけはないし、星がよく見える程度には暗いですから。
 昨晩も九時前ぐらいまで星を眺めてました。けっこう寒いんですけどね。地面に仰向けに寝転がると、とくに腰が冷える。せいぜい10分が限度です。
 
 星を見ていると、そこまでの距離の大きさに心が震えます。おそろしいほど宇宙は広大で、しかもほとんどは闇です。自分がその一部であることを強く意識する。そうするともうほんとに……

 で、お風呂。
 
 これもできれば半身浴がいい。時間があるときはそうします。三十分ぐらいぬるめのお湯に浸かる。

 風呂も灯りはつけません。脱衣場の小さな電球一個あればいい。目が慣れれば見えますから。

 ここでもいろいろやります。
 とくにセルフマッサージは念入りにやります。筋肉というよりはむしろ経絡を意識して肌への刺激ですね。
 あと温冷法とかいろいろ。

 それから温灸です。ぼくが使うのは棒灸です。
 原則は腎経です。ぼくは肝熱を抑えなくてはいけないので。

 九時過ぎにはもう寝室に籠もります。

 ベッドの上で漢方精油を使ったセルフマッサージ。腹部や胸部、首なんか。同じ精油でもハーブよりも東洋人であるぼくは漢方精油のほうが効果が大きい。とくに野菊がいいです。

 それから頸骨や頭骨縫合への押圧ですね。強く押さず、「適度」に押していると、だんだん緩んでいくのが分かる。リズムとか付けずに、じーっとそのまま五分ぐらい。

 で、さいごにまた呼吸法。眼球や口腔のストレッチもやります。

 あと寝るときだけでなく、ぼくはどこにいてもペットボトルの水を用意しておきます。もう三十年ずっとそうです。

 ひとつは突発性頻脈対策。冷水を飲むことによって迷走神経を刺激する。
 あと、奔豚気。これが喉に来ると一瞬詰まるので、水があったほうが安心です。

 それから一番怖いのが、喉の弁が勝手に閉じてぴたりとはり付いてしまう現象。母もそうだったし、やっぱり体質的にぼくと似ている二十代の女性も同じ症状で苦しんでました。

 理由不明。ひどいときは一分ぐらいの完全呼吸停止になるので、これはほんと怖い。
 死に一番近付く発作です。何度も病院に行っているんだけど、そんな症状聞いたことない、と受けつけてすらくれません。咳すればいいじゃない、って言われるんだけど、いくら息んでも弁が開いてくれないんですね。

 これも水を飲むとやや軽減するのが経験的に分かっているので、必須です。

 この三つはどれも眠っているとき、寝しなに起きやすいので、夜はけっこうサバイバルです。

 とりあえず、これで一日終わり。またなにか思い出したら追記します。
 
 


 

 

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掲示板の続き3

 朝食が終わったら、基本は執筆です(いまは止めてますが)。

 これはもうそのまま自己治癒のための行為と言えます。だから、ぼくと同じような体質の若い人たちから相談を受けると、いつも「なにかを表現するといいですよ」って言います。
 
 小説でも絵でも音楽でもダンスでも、なんでも。いわゆるアート。すべて顕在化されていない「思い」の解放に繋がる。夢の効用と一緒。

 小説なんていうのは、幻視したものを言語化していく作業なんだから、まさにそうですよね。内圧のいいはけ口になってくれる。安全弁みたいなもの。

 脳の興奮は身体化するときと心にでるときと、両方あるから、どっちもはけてあげたほうがいい。

 こういった自己治癒としての表現は、あまりまわりを気にせず、自分の心にじっくり耳を傾けて、それを掘り起こしてあげるようなやり方がいいと思います。フォーマットや流行を意識したら途端に効果は失せる。

 我流が一番。小説なら「自動書記」状態になるのが最高。ほんとに自分が書いたの? みたいな。

 だから、昨日、ぼくの小説の方法論みたいなのを書いたけど、あれはすべて後付ですね。
 書いているときはそんなことなにも意識していない。結果としてそういうことだろう、と。

 そうやって書くと、本人も思いもしなかった心の深層が浮上してくる。
 「いまあい」の祐司の澪に対する罪の意識なんかまさにそう。書いてから一年ぐらい経って、ようやく気付いた。
 あれはそのまま自分の母親に対する気持ちだったってことに。そんなもんです。

 あいだに昼食はさんで、7時間ぐらい? 日によって大きく変わりますが。

 で、いつの頃からか、出来上がったパターンがボクサースタイル。サーキットトレーニングスタイル。

 だいたいPCに向かって10分ぐらい執筆すると、それから三分ぐらいは思いきり身体を動かす。

 家の中を走り回ったり、へんな踊りおどったり、室内用のトランポリンでぴょんぴょん跳ねたり。

 これで肉体の興奮をはけてあげる。昔はがーーと集中して書いていたんだけど、あれやると、3時間ぐらいで熱暴走起こして、フリーズするんですね。結果として効率が悪い。

 だもんで、血液やリンパによる水冷効果もかねて、動き回る。

 奇声挙げるのもあり。どうせ家の中だし。ぼくはよくファルセットのさらに上のホイッスル音を出します。マライア・キャリーがやってたやつ。あれが滅法気持ちいい。幼児がよくデパートとかでやってますよね。

 たぶん50代男性であれが出せるのはごく少数だと思います。うちの奥さんも子供も出せないし。
 例のジョブズの原初絶叫療法なんて、これの発展系なのかも。


 あと日に三回、漢方薬も飲んでます。時期によっていろいろ変えるんだけど、どれも「肝熱」を下げるものです。
 もう、これに尽きる。過剰な肝熱。ぼくの場合は心熱も問題だと言われてますが。

 基本はこれが毎日。土日も関係なく。ただ、合間に病院と食料の買い出しと奥さんの仕事の送迎が入ります。

 ひとに会うことは年に数回しかないです。

 新聞も読まないし、TVも自然ドキュメンタリーぐらいしか見ない。携帯は電源がほとんど切れているし、最近は固定電話にはほとんど誰も掛けてこない。

 PCのメールは、こないだ数えたら月に5、6通ですね。知人からのものは。すごく少ないです。メール0通の日がほとんどです。
 SNSもやらず、ブログサイトの巡回もしません。

 植物と水に囲まれて静かに暮らす。そうすることによって異常な興奮を遠ざけることが出来る。

 勤めていた頃にはぜったい無理な話です。作家になれてよかった。

 ぼくと同じような体質の人が、これと真逆の生活を送っていたら、かなりしんどいんじゃないかと思います。
 「世間の常識だから」ではなく、自分の絶対的価値観でなにが必要なのかを考えて生活を組んだほうがいいと思います。だいたい世間の常識はマスコミが喧伝しているもので、それは企業側の要求だったりしますから、じつは不必要なものを、さも価値があるかのように見せて商品やシステムや生活スタイルを売りつけてるだけなのかもしれないし。

 おおくの常識はマスコミがつくった虚構、ぐらいに考えていれば、自分が誰かより劣るとか、そんなこと思わなくなる。とにかく自然に目を向ける。そうするとおのずと、ものを見る目が肥えてくる。直感力が回復してくる。

 なので、午後三時過ぎからまた歩きに出ます。

 このラウンドは二時間。ほぼ十キロですね。ノンストップで歩きます。

 やっぱり時間が長い分、ここが一番「効く」。

 一時間過ぎたあたりから気持ちが高揚してきて、感極まって涙が止まらなくなる。

 数日前はもう「嗚咽」でした。町中じゃあ問題ですが、原野みたいなところなので、顔を見られる心配もない。

 一時間ぐらい泣き続ける。なんで世界はこんなに美しいんだろう、って思うんですね。

 ただあるがままで素晴らしいのに。それ以上なにを望む? みたいな感じです。

 安いですよね。特別な修行をしたわけでもないく、ただ歩くだけで、この昂揚感。お得です。

 夕焼けはちょっと感傷を呼びますが、焼けない日は、黄金色の落陽が見られます。

 これがまたすごくて、必ず、必ず、気持ちが持って行かれてしまう。

 なにを思うかっていうと、死を連想するんですね。死の旅立ち。太陽っていうのは、向こうからこっちに向かって電磁波とか粒子線なんかが飛んできているわけですが、意識としてはむしろ吸い込まれる感じ。

 なぜでしょうね? なにかがぶつかってくる、って思わず、こっちが光に向かってるって思ってしまう。

 産道を通って光り溢れる分娩室に出たときのことを憶えてて、それを追体験しているってわけでもなかろうに。
 臨死体験って読むと、やっぱり光に向かいますよね。あれもいわば究極の脳の興奮だから(ひとは死にそうになるとあらゆる自前のカンフル剤を放出して覚醒をうながす)、なにかひとは脳が興奮すると、「光に吸い込まれるような気分」になるようにできているんでしょうか。

 あまりの興奮に脳が一気に先祖返りして、原生動物の正の走光性みたいな感覚が蘇るのか?
 すごい飛躍ですが。

 同じ落陽でも、半径数百メートル以内に自分しかいなくて、しかも木々の黒いシルエットに向かって沈んでいく太陽がいいんですね。山の稜線なんかもいいかも。

 人混みでビルの向こうに沈んでいく太陽とはまったく別もの。

 これも脳が、あるパターンを見たときのみ興奮するようにできているからなんでしょうね。その中に都市の風景はない。

 で、日が暮れたら家に帰る。

 脳が鋭く反応するパターンはいくつかあって、「落陽」「雲」「木々のシルエット」「ねぐらに帰る鳥」「川の波光」「風に揺れる梢」「風に揺れるススキ」「月」「森の奥の闇」なんかは、けっこう定番。

 まあ、全部古来からあるもので、そこにひとの古い脳が反応するってことなんでしょうね。

 長くなったので、また続きはあとで。
 

 


 

 

 


 

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掲示板の続き2

 ぼくが脳の興奮を抑え、不定愁訴を軽減するために日常的にやっていることを書きます。

 まずは、朝ですが。目覚めが何時にせよ、ベッドから起きるまでにいくつかのことを済ませておきます。

 ひとつ目は呼吸法。これはもう一晩中と言ってもいいのだけれど、いつでもやってます。

 吸気と呼気は1対2から1対3ぐらい。そのときどきで使い分けます。かなり本格的にやるときは、呼気が30秒を超えてくることもあります。

 パルスセンサーを付けながらやると、いっきに脈拍が落ちるのが分かります。確かにこれは効くんですね。

 腹式ベースですが、動物なんか見てると、そのときわずかに胸郭が横にも開いているのがわかるので、それを真似て、胸も少し開きます。自己流なんで「正しい」かどうかは不明。まずは獣を真似る。

 自律訓練法みたいに、「手が温かい」とか「額がひんやりする」とかやってもいいです。あるいは瞑想法みたいにかず数えたり、特定の言葉を唱えるのもあり。そのときどきで使い分けてます。

 多い日は、24時間の呼吸のうちの、数時間が呼吸法ってときもあります。

 そのあと、腹部や胸部のセルフマッサージですね。これは数分。強くやらない。筋肉を解すのではなく肌への刺激。

 それからふくらはぎのマッサージ。こっちはリンパマッサージなので、ちょっとだけ力入れて。

 そのあとで、「ためしてガッテン」で見た「目眩」を軽減させるエクスサイズ。左右に首を曲げるってやつ。
 これはカルシウム不足から起こる目眩の予防法なんだけど、ぼくもそうなのだろうか?
 たしかに、このエクスサイズを毎日欠かさずやるようになってから、一度も目眩の大発作が来ていない。

 あのビックリハウスに放り込まれたような強烈な目眩ですね。あれがもうどのくらい? ずいぶん遠離っている。 効いているのかも。

 それから数カ所経穴への刺激をして、それでようやく身体を起こします。

 で、すぐに枕元に置いた漢方精油の香りを深く何度か吸い込みます。鎮静させる効果のある精油なんだけど、ぼくはこれでちょうどいい。

 たいていのひとは寝起きは「覚醒」させるアロマオイルとかがいいんだけど、ぼくは寝起きのチャンネルの切り替えがドラスティックに起こるもんだから、以前は寝起き一時間は交感神経の興奮の発作に苦しんでたんですね。

 だから、もう起きた途端に「鎮静化」を促す。

 これら一連の「儀式」をやることによって、朝の発作を遠ざけることが出来ます。

 それからバナナ半分とかリンゴ1/4とか食べて水飲んで、歩きに行きます。 時刻は季節によって変わります。夏だともう五時とかでもOK。冬はそれをやると、冷気によって血圧が一気に上がって目眩を起こすんですね。最悪気を失う。なので、七時を過ぎるのを待つ。

 朝の歩きは三、四十分です。朝靄や朝焼け、真横に照らす曙光なんかをじっくり味わいながら、小さな森のなかにある祠をお参り。鳥がとにかくにぎやか。聞こえてくるのは鳥の声ばかり。

 前は走ってたんだけど、この一年は歩きに変えてます。

 やっぱり走るのは「上げる」んですね。ぼくにこれはマズイ。歩くのも上げるんだけど、上がりすぎているときには、それをもとに引き下ろす力がある。これが歩くってことのいいとこ。恒常性みたいな。

 それにやっぱり速度が違うと見えるものが違う。歩いているときは、数歩ごとに立ち止まってなにかを見つめたり、なにかに耳を傾けることが出来る。走っているときは、容易に立ち止まれないんですね。精神がそれを嫌がる。それひとつとっても、歩くってことと走るってことの違いがよく分かります。
 走っているときは、「もっと前へ!」って気持ちがすごくつよくなって、なんかこう「気持ちいいー!!」って感じになる。

 いまでも思い出すんだけど、17歳ぐらいのとき、陸上部の長距離班の三人で野外走に出たとき、五キロぐらい行ったところで、ものすごいハイの状態が来たんですね。ほかのふたりを見ると、そっちもそんな感じになっているのがよく分かる。いくら飛ばしても疲れない。走力にはかなり差があったんですが、ぼくがどんなに飛ばしても、ふたりが気持ちよさそうに付いてくる。あのときの数キロにわたる異様な昂揚は、いまでも忘れない。生涯にただ一度だけの体験でした。
ひとりでなく、三人だったからなのか。
 とにかくすごい昂揚。強烈な全能感。生とか死とか、すべてを突き抜けて永遠につっ走れそうなそんな気分。

 その後、それよりもはるかに走力が上がっても、あの感覚には及ばなかった。あれが一番。たぶん17歳という年齢が関係しているんでしょうね。

 なので、走ることの素晴らしさはもう存分に味わったので、いまは歩く、と。

 で、帰ってきたら、ヒールレイズとかスクワットとか、とにかく上実下虚を上虚下実に仕向けるための運動をする。四股踏んでもいいし、先生からは太極拳とか気功がいいとか言われるんだけど、まだいまのぼくにあれは無理。身体があの速度を受け入れてくれない。きー! ってなる。

 それからチューブを使って肩まわりのエクスサイズ。五十肩対策。まだ痛いんですよ。ほんとに長い...

 それからストレッチやって、ようやく朝食。

 朝食は前にも書いたけど、「ある実験によると、毎日200mgのマグネシウムを6ヶ月以上与えて、マグネシウムを与えない子供達のグループと比較したところ、マグネシウムを与えた子供達の多動症に大きな改善がみられた」という記事にもとづき、マグネシウムをたっぷり摂ります。

 また、ある研究によると大さじ二杯のフラックスシード(亜麻仁)オイルで多動症が改善するらしいので、納豆に、アオサとすったばかりの皮むきゴマとフラックスシードオイルと「浮き上がった心を降ろす作用のある」レンコン粉を入れて食べてます。

 あとは海苔とか小魚とか白菜の浅漬けとかそんなの。原則、朝昼は同じような食事です。
 米はぼく以外の家族は玄米なんだけど、ぼくの胃は受けつけないので、ふつうのご飯です。

 夜は奥さんがつくった料理だけど、これももすごく薄い味付けと、砂糖不使用、穀類や野菜中心です。肉や卵も食べるけど、たぶん一般的日本人よりはそうとう少ないかも。必要(と感じる)分だけ食べてます。

 なにを食べるっていうのはほとんどこだわりなく、むしろなにを食べないかに気を使う。奥さんもそれで苦労してます。

 受けつけないものが多い。以前は気付かずに食べて発作起こしたり下痢してたりしたんだけど、だんだんとこれは駄目なんだ、って気付いて、それを除くようになった。

 カフェイン系は駄目です。当たり前ですが、極陽の人間にこれを与えたらえらいことになる。
 コーヒー紅茶、お茶、それに類するもの。アルコールも同様。
 あと刺激物。唐辛子、ラー油等。100%咽せます。喉の時点で受けつけない。黒胡椒も駄目。粉末の胡椒はそこそこ行ける。
 わさび、からしはぜんぜん平気。なぜだか。

 あと調味料。塩分が高いと、あとで発作が来ます。血中の塩分濃度に過度に反応してしまうんだと思います。あと砂糖もですね。これは血糖値とアドレナリンが密接に関わっているから。一発で来ます。
 
 それに糖反射の問題も。興奮が高いときに砂糖を摂ると、胃が完全に止まるのが分かります。これが副交感神経優位のときには起こりにくい感じがします。だから太るひとはきっと副交感神経優位なんでしょうね。


 あと化学調味料も。いぜん、回転寿司にいって十カンぐらい食べたら、そのあとすごい発作が来て、「なんで!」って思ったら、最近の回転寿司はかなり化学調味料をつかってるんですね。これにはまいりました。

 あとは動物性脂肪。これは一発で下痢します。もう身体がはなから受けつけない。
 子供のときから嫌いで、それは母親ゆずりだったんだけど、DNAに染み付いている。

 だからそれが原因で肉全般も苦手になってしまう。脂肪は消化におそろしく時間が掛かるんですね。そのぶん酵素やエネルギーをたくさんつかう。脳がそれを嫌うんでしょうね。そっちにまわすエネルギーはないよ、と。
 で、門前払い。

 不思議とそれが食の嗜好にも連動している。

 あと加工品だと、香料が駄目ですね。これも発作の原因になる。においが嫌だっていうのもあるんだけど、ケミカルな作用が神経になにか悪さをするみたいです。できるだけ遠ざけるようにしています。

 あと乳製品ね。例の乳糖不耐症なんでしょうか。お腹ごろごろってやつ。

 小麦も止めてたんだけど、どうにも体重減が止まらないのでしばらく前から解禁しました。

 これ以外は好きなように食べてます。ひとからは不思議に見えるかもしれないけど、毎度食事は「すごくうまくて気を失いそう!」ってくらい充実してます。脳が悦ぶ。まあ、なのですぐ満腹になってしまうんですが。

 ああ、あと食べ方。
 これはもう噛む。ひたすら噛む。若い頃は流し込んでました。そしちゃあ下痢してた。四十歳ぐらいまでは年に100回ぐらい下痢してたのでは。いまは年に数回です。

 口に入れたら、箸も茶碗も置いて、座椅子に背中つけて、しばらくは噛むことに没頭。
 水はいっさい飲みません。唾液に頼るしかない。だから噛む。

 前は一回の食事でコップ三杯は水を飲んでました。これじゃあ流し込みですよね。

 あと、ふと試したら良かったのが、夜中に胃酸が出て痛くて目が覚めたとき、舌を食べ物に見立てて、歯でくちゃくちゃ噛んでみたんですね。痛くない程度に。そうすると大量に唾液が出るので、それを飲み下したら胃酸が中和されて痛みが遠のいた。唾液にはそんな効用も。

 朝食までで、こんなに長くなってしまいました。いろいろやってるなあ... 続きはまたあとで。


 

 


 

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掲示板の続き

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歩いている途中でパチリ。こういうのはもうほんとに胸が痛くてどうにかなってしまいそう。「こんなにも世界は美しいのに……」はナウシカのセリフでしたっけ?

 掲示板の続きですが、なんとも言いようのない感情の昂ぶり、甘く切なく、どこか懐かしく、かつ荘厳で幽玄で、死をものすごく近くに感じる。

 これをぼくは古い脳への回帰だと解釈する。新しい脳の抑制が解かれた状態。鬱傾向では生じないことから、古い脳はより高い活力を必要としているらしい。病理レベルでの過覚醒状態であるぼくがこの状態になりやすいことから考えても、そうとうなレベルの興奮が必要みたい。

 逆を言えば、ひとは強い抑制を獲得したことでひとになった? 

 古い脳で世界を見る、感じる。そこでまず生じるのは境界の喪失ですね。自分と世界との境界。我と彼。過去と現在と未来。夢と現。死と生。

 ひとになるっていうのは、この境界をつくることなのかも。そして仕分けする。データベース化し、すべてに名前を付ける。言語化する。

 シャーマン体質の人が、世界のあらゆる集団で、この状態でものを語ったのが、やがては神話や宗教になっていった。
 だからより「ひと化」していくほど、神話は遠くなっていく。

 ぼくが(無意識のうちに)書こうとしていたのは、この「汎神話的世界」の物語なんでしょうね。たぶん。

 「なんだか分からないけど、言葉には出来ないんだけど、あの感覚を読者に味わってもらいたい」と言い続けてきたのは、そういうことだと。

 これを退行と見るのか、ひとの原型へと向かう高次の体験と見るのかは、体験したひとが自分で判断するしかないですね。体験しなければ、もとより判断のしようもないのだけれど。

 こういうプリミティブな感覚は、やっぱり脳の最新の機能をつかうよりは、古い機能をつかったほうが起こしやすい。

 それが情動や愛だと。ぼくは感傷や望郷、哀切、高い湿度、脱抑制の文章、そして男女や親子の愛をつかって、その場所に向かう(つい最近、「パラノーマルアクティビティー」をDVDで見てたら、やっぱりこの感覚に陥った。この場合は恐怖とか不安? ただ、そこで辿り着く場所がちょっと違う感じはあります。着地点がかなりずれている)。

 男女の愛なんて生物に雌雄が生じたときから原始的な形で存在していたのだから、やっぱり道具としては強力なんですよね。

 そうやって読み手の脳を強くゆさぶってある境地に向かわせる。

 もひとつ、「物語」が強いのは、それが「体験」だからっていうのはありますよね。

 よく「知識は体験を通じて智慧となっていく」って言われるけど、読書というのは、登場人物に共鳴しながら、物語世界を体験していくことですから、まさに知識ではなく智慧に繋がっている。

 「知る」のではなく「感じる」ってやつです。

 どっかの映画監督が「どんだけ素晴らしい言葉を聞いても、多くのひとはすぐに忘れちゃうけど、それが感動の涙を流しながら耳にした言葉ならずっと忘れないんだよね」みたいなことを言っていたけど、これもそれに近いのかも。

 物語っていうのは、すごく強いんですね。道具として。

 で、その境地に一度立ってみると、すごく見渡しがよくなって、日常の多くの欲望や煩悶が、じつはそんなに大事なことではなかったってことに気付く。あれです。宇宙飛行士が地球を眺めたときに感じるやつ。あんなふうなのかも。

 いずれもっと宇宙に簡単に行けるようになったら、みんな二十歳とかになったら必ず行くような仕組みにすれば、世界の在り様もきっと変わるでしょうね。別に脳の過剰な興奮なんか必要とせず、その場所に辿り着くことができるようになるから。


 

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