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 昨日の続きですが、

 歩く環境もそうだけど、「歩き方」もけっこう大事かも。

 もうこれは「自然に」「あるがままに」というしかない。

 人間は何十万年(何百万年?)もかけて歩く動物に進化してきたのですから、自然に歩けば、それが一番理にかなってる。なにかよほどの偏りが身体にない限り。

 理にかなった歩きをすれば疲れないし故障もしない。

 歩くっていうのは、実は息をするみたいなもので、一日二、三十キロ歩いたぐらいでは、平地なら疲れなんかほとんど残らないんですね。人間はそのようにできてる。

 で、そうやって歩いているので、腰痛がすごく楽です。前にも書いたけど、引き続き痛みがない。

 ランニングでは消えなかった痛みが歩きで消えた。これもけっこうフィジカルな話ではなく、心のことなのかも。

 一般的に腰には怒りが出る、と言われているけど、まあそれに近いなにか。緊張とか興奮とか。それがうまくはけてくれると腰痛も消える。

 あと、胃痛もけっこう遠のいてます。かなり食事に気を使ってはいるけど、歩きがプラスされたことで、どうにか維持できてるような。

 ほてりは、面白いぐらい消えてしまった。でも、これは「体質が変わった」のではなく、「歩いているとほてりが出ない」ってことみたいです。

 なので、家でぶらぶらしていると、その日は夕方からやっぱり顔や耳がどんどん熱くなってくる。
 足に血を降ろせばいいんだと思います。ふくらはぎのポンプ作用ですね。

 突発性頻脈と期外収縮はまだ、たまに出ます。仕方ないですね。頻度が落ちてくれればそれでよしとしなくては。

 あと、今年はなぜかまた頭皮の血の塊が復活です。頭皮だけでなく、鎖骨周辺も同様。指で掻くと、ぽろぽろ瘡蓋がこそげ落ちる。

 これも、いい反応なのかもとも思ってます。熱が身体の深部にこもらずに体表に出てきた。

 胃熱が表皮に出てきたので、胃の痛みがなく、瘡蓋になる、と考える。

 口内炎はつねにありますが、悪化させない方法を見つけました。
 これは免疫力が弱く、感染で口内炎ができているひとには効かないかもしれないけど、熱が口に吹き出るタイプの人にはけっこうお勧めです。

 唇閉じて頬を膨らませる。上唇や下唇の内側にも空気を溜めて膨らませる。そんで、あとは舌をストレッチ。頬や唇の裏側を舌でぐりぐり押したり、思いきりアカンベエしたり。正味1、2分ぐらい。それを日に3~5回。そうやって口まわりの血流をよくしてあげて、 血液による水冷をきちんと働かせる。

 これをやってると、口内炎出来ても三日ぐらいで消えてくれる。痛くてご飯食べられない、ってなるちょい前ぐらいでなくなる。すごく助かってます。

 いま、ふと思ったんだけど、だとすれば、これすべて、たんに血流の話ってことだけなのかも。
 全身の血が歩くことによって滞りなく巡っていれば、さまざまな不具合も弱まってくれる。

 起きてるあいだじゅう歩けばいいのか? 試してみる価値はあるかも。そのあいだすべての不具合を遠ざけられるなら。

 ああ、でも五十肩はまだ完治せず。かなり動くようにはなったんだけど、先日、つい肩のこと忘れて木登りしたら、なんか肩の腱がブチッてなって、それからまたじっとしてても痛み復活。これは自業自得です。

 神経面では、さほど大きな変化はなく、やっぱり過剰驚愕症とか解放性幻聴はあります。だから、興奮は相変わらずなんですね。さっきも、柿を口に入れたら、それがえらく美味しくて、「うまい!」って脳が感じるのと同時に、目の前に大きな光が炸裂しました。これは興奮が大きいときの典型的症状。大きな興奮が視覚野を刺激してしまった。

 追想発作も頻度高いです。なにをしても、なにも見ても、すごく特別なことのように感じる。すべてが自分の中の一番大事な思い出と繋がっているような、そんな気分になってしまう。

 頭の張りも感じます。血圧がやっぱり高いのかも。このへんが最後の課題かも。

 体温が高く、血圧も高め、これが脳が望む常態なら、もうぼくはそういう人間なのだと思うのもひとつ。

 どうあっても平均的人間にはなれないのなら、「あるがまま」を受け入れるのも。

 この五十年でぼくはおそらく平均的男性の五百年分ぐらいはしゃべってきただろうし、やっぱり五百年分ぐらいは二本の足を動かしてきた。そう考えると、体温や血圧が高いのも当たり前って思えます。

 このような生きものであると考える。

 ランニングから歩行に変えてⅡシーズン目。

 いま、ちょっと「恋愛寫真」を読み返してみたら、けっこう文章が硬いことに驚きました。
 新作は、間違いなくいままでで一番やわらかい文体です。くだけている。ひらいている。優しい。

 こういう文章で書くには、実はけっこう体力がいるんですが、それが自然に出来ているのは、やっぱり歩くことでなにかが変わったのかも。物事の見通しがほんとによくきくようになったんだけど、そういったことも小説に反映されているように思います。いままで繰り返し書いてきた「思い」に深みを与える。そんなことが出来たような。

 これがもう最後の小説でもいいや、ぐらいにいまは感じてます。ひとつ残らず注ぎ込んでしまったので、いまは空っぽです。なんにもない。そのぶん、いっそう感受性が増して(過覚醒、超覚醒ですね)、自然からいろんなものを吸収しようとしているみたいです。

 

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 おそらくこれはホソホウオウゴケ。ぼくが大好きな苔です。
 ここのところはロビン・ウォール・キマラーの「コケの自然誌」を読んでました。著者は大学で植物学等を教えるネイティブアメリカンの女性ですが、考え方がすごくぼくと似ていて、「苔好き」にはパーソナリティーに強い相関があるのではないか? とさえ思ってしまいました。

 引き続き「徘徊」してます。先日は一日で二十五キロ歩きました。距離が多ければいいというわけでもないので、適正な歩き方というのは、いまだに模索中です。

 この日は朝から異常に興奮が強かったので、それがこの距離を求めたんだと思います。逆を言えば、決まった数字はないということですね。その時々の自分の心の要求に素直に従うのがいいのかも。


 あとは「質」ですね。この「徘徊」はエクスサイズではないから。むしろ瞑想みたいなものなのかも。
 できるだけ静かな場所を歩く。ぼくはひとがいると駄目です。車は論外。二時間歩いて、ほんの数人のひとと行き交うぐらいが、まあ限度かと。

 森や川や雲や星を眺めながら歩く。それが大事。町中はぼくは駄目です。平気なひともいるでしょうが。

 音楽はあってもなくてもいいです。状況による。自然の音がよく聞こえる場所はむしろそちらを聞きながら歩いた方がいい。ぼくが好きなのは風の音です。木々の梢が揺れるざわめき。竹林で竹と竹がぶつかり合う音。

 音楽はやっぱりピアノ曲が多いです。最近はFRANK FEDERSELをよく聴きます。このひとアインシュタインみたいな髪の毛していて、なんか近いものを感じます。感情喚起力、映像喚起力の強い曲を弾きます。

 そうやって歩いていると、どんどん意識が変わっていく。これって癖みたいなものもあるんでしょうね。
 長く続けているうちに、そういった状態になりやすくなっていく。回路が出来上がる。

 この回路が長時間働くことによって、脳のなにかが変わっていく。

 これを一度知ってしまうと、ちょっと引き返せなくなる。
 物質的なもの、ゴシップ的な情報がほんとにどうでもよくなる。欲しいのは夜の闇や星の光や草花の香りや、あるいは内側から湧きでてくる甘美で切ない思いですね、そればかりになる。

 前世紀の十四歳乙女みたいなこと言ってますが、けっきょくのところ感受性というのは、入力の適正値みたいなのがあって、現代の音や光、匂い、ひとびとの会話、あふれる情報というのは、それをはるかに超えてしまっているような気がします。

 夜の闇は優しいとしみじみ思います。柔らかな黒いベールのように心を包む。
 昨晩も、田園地帯のど真ん中、四方にまったくなにもないところで畦道に仰向けに寝転んで月を見てました。

 昨日の夜空はよかった。雲が多く、しかも風が強かったので、どんどんと流れて行く。雲間に月が見え隠れするのを見ていると、気持ちが持って行かれるんですね。すごく変な感じになる。

 此岸と彼岸の境が消え失せて、自分の境界さえもがなくなっていく。
 十五分ぐらいでしたか。けっこう寒かったので、地面が冷たく、どんどん身体が冷えていったので、それが限界。

 あまりもすごい体験だったので、家帰って、今度は奥さんを連れてまた外に出ました。

 奥さんも感動はしていたけど、あの感覚は分からないと思う。

 もしかしたら、生まれつきのものなのかもしれないし。
 ぼくは十二、三の頃から夜の闇に惹かれて、いつも夜中まで外を歩き回っていましたから。そういった無自覚的な、本能的な欲求を持って生まれてきたから、いまのようになったとも考えられる。

 こういったことを続けていくうちに、徐々に眠りの質が変わってきた。
 距離を伸ばしてからしばらくタイムラグあって、ある時期から眠りが深くなった。

 夜中に起きる回数が減って、その合間の眠り自体が深くなる。

 興奮はいまだに続いています。でも、それと拮抗する「睡眠力」みたいなものが強くなった。

 以前書いた、薬でもたらされた深い眠り、意識の強制的な断絶とは違う。

 何度か書いたけど、ぼくには夢の中にずっと子供の頃から訪れてる「あの場所」があります。

 これは、きっと眠りの深さと関連しているんだと思うんだけど、ある条件が整ったときだけ訪れることが出来るんですね。


 そこに、ここのところ立て続けに降り立つことが出来ている。

 夢がより鮮明になり、存在感が増してきている。
 こうなると、主観的な「現実」が逆転してくるんですね。目覚めても、その日午前中いっぱいぐらいまで、ずっと夢の気分を引きずるようになる。夢が現実を浸食する。

 先日は、空一面がキルトのような曼荼羅のような、すごく不思議なパターンで覆われ尽くした夢を見ました。
 これを言葉で表すのは難しい。あのスケール、現実から遙か遠く離れた光景。

 色は赤が基調で、模様の多くは渦を巻いている。なんか古代文字のようにも見える。
 雲はそれよりもずっと下にあって、ところどころ模様を隠している。

 ぼくは、これは世界の終わりの光景だと思っているわけです。夢の中で。でも、怖れよりも、なんか魅入られている感じのほうが強い。

 また別の日は、夜空一面にあり得ないほどの星があって、中でもひときは明るい星の連なりがあって、それが夜空全体に拡がるふたつの十字架を描いているという夢も見ました。伝わるかな-、あの壮大な光景。

 これもある種の凶兆であって、足元を見ると鶏が歩いているんですが、それが鼻の長いテングザルみたいな人間の顔になってるんですね。すべてが世界の終わりの前兆であると。

 この終末的な夢は、ずっと子供の頃から見続けてます。

 その頻度が最近高くなってきた。でも、抑圧から解放された無意識というのは、ほんとに顕在意識では思い付かないような光景を見せてくれるものです。

 亡くなった母親と夕食を食べている夢とかもよく見ます。目覚めてしばらくは、母がいないことが信じられずに、つい探してしまいそうになります。夢ってほんとすごいです。
 

 
 

 
 


 
 

 
 
 

 

 

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 新作の小説は、様々な気象現象が出てくるんですが、基調になっているのは、きっとこんな感じ。厚い雲に覆われて、陽の光が地上にほとんど届かない寒々しい光景。

 実際には、これは早朝、朝靄が深く立ち込める中で撮った一枚です。

 早朝はこんな風景が見られるから歩くのが楽しい。

 昨日は今期初めて20キロ歩きました。朝と夕と夜。さすがに眠れました。夜中に一度、喉に痛みが走って目が覚めたんですが(先生からはこれも奔豚気の一症状だと言われてます。豚が身体を駆け巡る。下から上に向かって突き上げる感じですね。喉がブレーカーの役目をして、脳に行くのを抑えた。すごくピンポイント。喉の一点に錐で刺したような痛みが走る。ただ、気が緩んだとき、眠り掛けとかに多いので、あるいは副交感神経系の発作なのかもとも思ってます)、家から走って函館まで行った夢を見てました。夢の中でも脚を動かしている。一種の慣性ですね。

 前にも書いたかもしれないけど、歩く、という行為には、けっこういろんな意味がある。
 ある時点で量が質に変わるんですね。10キロでは見えなかったモノが20キロ行くと見えてくる。
 ぼくはずーっと走り続けてきた人間ですが、それを一年前から歩きに変えてみた(実際には我慢できずに走ってしまうときもあります。以前のぼくは、普通の移動もつねに走っていましたから、ついどうしても)。

 走る――時速十キロとかで移動する。これは、猟とか逃走とか、そういったときのモードですよね。
 アグレッシブ。そのとき分泌されるホルモンは、やっぱりひとをアグレッシブにする。昂揚。解放。

 その半分、時速五キロで歩く。このとき分泌されるホルモンはもっと穏やかそう。
 これがぼくが求めているものです。ある種の静謐さ。行為が脳にフィードバックされる。
 そうすると、すごく高いところで興奮と抑制が拮抗する。興奮は収まらないんだけど、抑制系が強靱になって、それをうまくコントロールできるようになる。手綱さばきがうまくなる。

 高い感受性はそのままに、そこから入ってくるものを、「冷静」に受け止められるようになる。
 まあ、それでもけっきょくは感激して泣いてしまうんですが……

 夜、星を眺めながら歩く。これは補陰にもなりますから、なおよい。

 なにか言いようのない、不思議な感覚が胸に押し寄せてくる。言語化しようのない昂揚。

 これが仮に潜在意識の解放なら、なんでそれが「心地よく」感じられるんでしょうね。
 ひとは、人間になることで、けっこうつらい思いをしてるんでしょうか。なにかを得るためになにかを失った。

 その失ったなにかを取り戻す。豊饒で温かいなにか。

 結局のところ、ぼくが小説で書こうとしているのはそこなんですね。

 十ヶ月掛けて長編を書き上げたあとなので、いまはまったく原稿は書いていないんですが、この「歩く」という行為が、すでに執筆の一部なのかもしれない。一部どころかほとんどなのかも。

 ここで味わった感覚を、なんとか再現しようと試みる。この感覚が出発点なのですから、それなしには生まれ得ない小説。

  

 

 

 

 

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 ベトナム版「いま、会いにゆきます」 可愛いイラスト。この絵、すごく好きです。


 先の記事を書いたあとで90分ほど歩いてきました。

 けっきょく、それでなにが起きるかっていうと、興奮が抑えられるわけじゃないんですね。
 なんかこう、興奮の質が変わる感じ。純化される。

 たちの悪い興奮から、比較的上質な興奮に。

 いいことなのか、どうなのか。

 たったいまのことだけど、奥さんが隣の部屋で賛美歌を聴いていて、それを聴いていたら、感情がどうにも揺さぶられて、胸が痛くなって、それがあまりにも激しいものだから、こんどは、それが不安になって、パニックを起こしてしまいました。

 これは初めてのこと。

 とにかく「感じ入り」過ぎる。怖いほどに。ここ数日、ずっとそうです。

 なにを見ても、それがきっかけとなって、強い感情が湧き起こる。

 過剰驚愕症も続いているんですが、その似たような感覚で、過剰「感じ入り」症、これが加わる。

 過剰驚愕症は、多くの場合きっかけは音です。遠くで車のクラクションが鳴ったとか。あとは、ふいに目の前になにかが現れるとか。

 先日は、歩いていて、目の前に急にモンキチョウが現れて、それで胸がドキン! となって、それから心臓がカッと熱くなった。
 
 (この熱感ですが、これはほんとに心臓が熱くなっている、という考え方も。心臓は身体の中でもとくに熱い臓器なんですね。その温度がぐっと上がるのを「胸が熱い」と感じている。つい最近、聞いた話ですが)

 自分でも、この反応に驚いて、なんだろう? と考えて、けっきょく、これはぼくが蝶を亡くなった母と重ねて見ているからなんだ、と思いいたりました。なので、ぼくとしては、とつぜん目の前に母が現れた。それで驚いた、と。

 なんか変なんだけど、きっとそういうこと。

 これに対して、過剰『感じ入り」症は、驚くことはない。だから、ドキン! はない。ただ、胸がきゅうっと痛くなる。
 
 あらゆる事象が、なにかすごく大事な思い出と関連づけられて、甘美で切ない感覚が急に込みあげてくる。

 ちょっとあれにも似ている、既視感。
 なにか記憶回路の混乱なんでしょうね。ノスタルジーにも近いし、でも、どこかに死の匂いもする。
 強烈な感傷と多幸感。

 ひどいときは、ほんとに数秒おき。目に映るすべてのものがトリッガーになる。あと音も匂いも。
 でも、甘美だから、気持ちいいんですね。なので、ちょっと病み付きになる部分もある。

 ある種の酩酊感。

 何日か前は、夜更けに誰もいない田園地帯をひとり歩いていたら、急に多幸感が込みあげてきて、笑いが止まらなくなった。とにかく可笑しい。あれはもし、誰かが見ていたら不気味だったでしょうね。真っ暗闇の中、誰かの笑い声がする。

 脳が興奮状態にあるのは間違いないんですが、その方向がね、ちょっとまた目新しいというか。
 
 意図的につくり出すことも出来ます。
 ipodtouchに、ぼくはいろんなシーケンサーソフトを入れてるんだけど、そのいくつかは、パッドとか鍵盤を押すだけで和音が出るんですね。で、コーラスの音源でリバーブを高めに掛けて、いろんな和音を奏でていくと、そのうち脳がある種の状態に入る。上記のような感じ。

 目は閉じてます。横になって、指だけで音を出している。

 すごく鮮明に記憶が蘇ったり、いままでずっと見落としていたことにはたと気付いたり、いろんなことが起きる。

 このあいだは、この状態で急に耳元で太い男性の声で、意味不明の三文字(なんか『バルス!』みたいな、ちょっと呪文ぽい言葉でした)が響いて、驚いてイヤホン外したんだど、とうぜん誰もいませんでした。

 解放性幻聴は、静かなときに起こる神経の逆流現象ですが、こういった音を聴きながら、そこに別の声が被ってくるというのは、ちょっと珍しい。そうとう、脳が興奮状態にあったんでしょうね。

 去年、毎日20キロ歩くようになったあたりから、脳の状態がこうやって少しずつ変わってきたような気もします。
 まあ、痩せたのが一番大きいのかもしれないけど。

 感受性がぎりぎりまで高まっている。自分でコントロールできる上限ですね。粗食と過度な運動。まあ、ちょっと荒行みたいなところもある。ぼくの場合は、脳の興奮をどうにかしようと思ってやっているわけですが、結果として、ものの見え方、認識、直感、そういったものが変化してきた。

 なので、新作の小説は、そういった脳の状態が大きく反映されています。「いまあい」「そのかれ」にすごくよく似ているんだけど、それだけではない――と思います。 


 

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 我が家の植物たち。どれも元気です。一番の古株はもう十五年ぐらいは一緒にいると思う。
 うちはなぜか植物がよく育つ。このあいだ、ホヤを一年ぐらい前に買ったお店にまた行って、「もう二メートルぐらい育ちました」と報告したら、びっくりされました。たしかに買うとき「成長遅いですよ」とは言われたんだけど、ぜんぜんそんなことなくて、えらく勢いよく蔓を伸ばしてます。天井に届いて、そこからいま横に這うようにして成長してます。

 ぼくは斑のないホヤが好きで、いま、四鉢育ててます。写真の蔓植物は左がバニラで右がエスキナンサス。

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 この吸涙鬼のポップの隣がホヤです。
 小さな水槽ではADAの「侘び草」を育ててます。手前の硝子容器はそこらへんで拾ってきたコケ。奥に120cm水槽が見えます。

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 反対から見たところ。手前は9ゲージのジオラマです。

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 水槽のアップ。
 五年以上同じハロゲンランプ使っていたら突然パーンと割れてしまい(使いすぎです)、ADAのLEDライトに切り替えました。45cm用を二基。

 120cm用が発売されてなくて、店のひとは、水槽の奥行きが45cmなので、これを縦に三基並べて置いたら丁度いいよ、と言ってくれたのですが、それだとうちの水槽にはちょっと明るすぎるので、自分でアルミ材を加工して吊り下げ用のアタッチメントをつくり、こうやって二基で照らしてます。それでも前より明るいぐらい。

 見た目の光の色は前のほうが好きなんだけど、やっぱり夏場の熱と、消費電力ですね、それを考えるとこっち。あと寿命も。ハロンゲンランプは値段がけっこうして、しかも寿命もあまり長くない。
 
 消費電力も合計で300Wから40Wへ。

 あと、照明の存在感がさりげないくていいです。ほんと薄くて軽い。

 ハンズで0.4だか0.3だかそれぐらいのナイロンコートワイヤーを買ってきて、それで吊ってるいるんですが、ワイヤーがあまりに細くて見えないものだから、斜め下から見上げると、光だけが宙に浮いているように見えます。

 純正のアクリルの台もすごくきれいなんだけど、やっぱり縦置きで二基だと光が届かないところが出てしまう。

 いまはこれでうまく行ってます。

 このレイアウトも古い。五年以上変えていない。底床もかなり崩れてしまっている。両側のもこもこはホソバミズゼニゴケです(たぶん)。いっときは水槽全体を埋めていたんだけど、ここだけ残して捨てました。

 中央の剥き出しのところは、ニューパールグラスが植わっているので、あとひと月もしたら、びっしり覆われるはず。
 
 
 こうやって水と緑に囲まれていると気持ちがいい。
 ほとんど引き籠もってますからね。徘徊と通院ぐらいしか外出ないし。家の中だけでも。

 考えればこの五十年で、関東甲信越から外に出たことが数えるほどしかない。
 ほとんど家のまわりで暮らしてます。
 なんか、こういうのって、あれを思い出しますね。「海の上のピアニスト」
 彼が下船しなかった気持ちがよくわかる。ある種の保守性なんだろうけど。

 すごく顎のしゃくれたティム・ロスがあのパーソナリティーを演じると、なんか説得力がある。あの顔はそうだろうと。自分に似ている気がします。

 
 
 

 
 
 

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 「徘徊」しながら、せっせと木の実を拾ってます。

 すごくこれが馴染む。好きなんですね、木の実拾いが。

 誰もいない森の中をゆっくりと歩きながら、落ち葉に半ば埋もれ掛けている木の実を探す(写真には蓮の実もあります。これは沼で拾える)。

 つくづく採取民族だなあ、と思う。

 これだけ馴染むってことは、これはもう本能で、だとしたら、昔にもそれが行動に表れていたことがあったかも、と思ったら、ぼくは幼い頃、毎日せっせと釘拾いをしていたんですね、幼馴染みの女の子とふたりで。

 これだ、と思いました。採取動物は幼児期、擬似的な体験を積むことで訓練するわけです。拾うという能力を。

 いろんなところで書いているので知っているひとも多いと思いますが、とにかく日課のようにして、まいにちせっせと釘を拾っていたわけです。それを持ち帰って庭に埋める。その繰り返し。意味はないんですね。「モノを拾いたい」という衝動を、ただ解放してあげているだけ。

 取り憑かれたように拾いまくってました。庭の釘はすっかり錆びて、きっと掘り返したら大量の赤い土が出てきて、見たひとはびっくりするでしょうね。

 骨の髄まで採取民族。

 外胚葉、中胚葉、内胚葉っていうのは、それぞれが、「神経」「筋肉、骨格」「内蔵」の発達優位部分を表していて、進化の段階と対応しているとも言われています。

 腸しかなかった生きものに骨格、筋肉が出来、やがては神経網が発達して脳が出来た。

 これでいうと、外胚葉が最後に来るんですが、ふと思ったのは、そういった何十億年という進化ではなく、人間になってからの進化を対応させるのも面白いんじゃないかと。

 これも例の勝手な想像ですが、それだと内胚葉が最後になる。

 痩せてて手足の長い外胚葉は森で採取生活をしていた時代の体型。神経優位で、つまりセンサーですね、これが発達している。嗅覚や視覚をフルに使って食べられるものを見つける。家族単位で行動し、集団生活にはあまり馴染まない。一番古い、氷河期前のタイプ。

 で、氷河期が来るとマンモスみたいなのが主食になる。本を読むと、小型の動物はすばしっこくて、狩猟に使うエネルギーと摂取できるカロリーとを秤に掛けると、けっこうわりに合わなかったらしいですね。なので、狩猟といったら、集団で大型の動物を狩る、というのがメインだったよう(まあ、諸説あるんでしょうけど)。

 筋肉、骨格が発達し、集団で行動することに適応している。けっこうアグレッシブで、また、そういった男性に魅力を感じる女性たち。中胚葉。

 で、氷河期が終わり、農耕時代。
 穀物が主食。これはもう消化に手間が掛かりますから(果物のように自分自身に酵素を持っていないので)、内臓が発達する。農耕に適したパーソナリティー。内胚葉。

 けっこう、なんかきれいに収まる。

 これだと、ぼくがいつも自分がすごくオールドタイプの人間である、ひとの原型であるように感じていることとも一致する。森が恋しい。都会の暮らしはきっとできない。緑がないと窒息してしまう。

 でも、人工物に囲まれているとすごくいい気持ちになるひともいる。この好みの隔絶はどこから?

 

 


 


 

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 今回の小説のイメージ。「いまあい」は雨だったけど、今回は夕焼けです。ちょっとまだ色が弱いけど、まあ、だいたいこんな感じ。夕焼けと鉄塔が出てきます。

 薬を止めることで突発性頻脈は治まりました。ピークはもう一晩中、何度も何度も襲ってくる感じだったので、ほんと怖かったです。思えば、母は晩年、この突発性頻脈にすごく悩まされて(それと、突発的な血圧の上昇ですね。200を軽く超えてしまう)、なんども救急車を呼んでましたが、いま思えば、安定剤や睡眠薬の飲み過ぎだったのかも。ぼくのように、服用を止めれば、ほかの不具合はあるにせよ、この発作からは逃れられたのかもしれません。

 先生とも話したんだけど、結局、興奮とか血圧の上昇は脳にしてみれば意味があってやってることで、だから、それを薬で無理矢理抑えると、脳はびっくりしてしまう。それで反動が起こる。流れを止めてはいけない。流れをはけてやるべきなんですね。

 なので、また「徘徊」です。夏は日に10キロ程度だったのを、いま15キロぐらいまで伸ばしてます。去年の冬は20キロ歩いてたから、そのぐらいが脳の興奮をはけるには、ちょうどいいのかも。

 試行錯誤ですね。やっているうちになにかが見えてくるのかも。

 前回、書いていて、データが消えてしまうアクシデントがあったので、今回は、細かくアップしていきます。続く。


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