昨日の続きですが、
歩く環境もそうだけど、「歩き方」もけっこう大事かも。
もうこれは「自然に」「あるがままに」というしかない。
人間は何十万年(何百万年?)もかけて歩く動物に進化してきたのですから、自然に歩けば、それが一番理にかなってる。なにかよほどの偏りが身体にない限り。
理にかなった歩きをすれば疲れないし故障もしない。
歩くっていうのは、実は息をするみたいなもので、一日二、三十キロ歩いたぐらいでは、平地なら疲れなんかほとんど残らないんですね。人間はそのようにできてる。
で、そうやって歩いているので、腰痛がすごく楽です。前にも書いたけど、引き続き痛みがない。
ランニングでは消えなかった痛みが歩きで消えた。これもけっこうフィジカルな話ではなく、心のことなのかも。
一般的に腰には怒りが出る、と言われているけど、まあそれに近いなにか。緊張とか興奮とか。それがうまくはけてくれると腰痛も消える。
あと、胃痛もけっこう遠のいてます。かなり食事に気を使ってはいるけど、歩きがプラスされたことで、どうにか維持できてるような。
ほてりは、面白いぐらい消えてしまった。でも、これは「体質が変わった」のではなく、「歩いているとほてりが出ない」ってことみたいです。
なので、家でぶらぶらしていると、その日は夕方からやっぱり顔や耳がどんどん熱くなってくる。
足に血を降ろせばいいんだと思います。ふくらはぎのポンプ作用ですね。
突発性頻脈と期外収縮はまだ、たまに出ます。仕方ないですね。頻度が落ちてくれればそれでよしとしなくては。
あと、今年はなぜかまた頭皮の血の塊が復活です。頭皮だけでなく、鎖骨周辺も同様。指で掻くと、ぽろぽろ瘡蓋がこそげ落ちる。
これも、いい反応なのかもとも思ってます。熱が身体の深部にこもらずに体表に出てきた。
胃熱が表皮に出てきたので、胃の痛みがなく、瘡蓋になる、と考える。
口内炎はつねにありますが、悪化させない方法を見つけました。
これは免疫力が弱く、感染で口内炎ができているひとには効かないかもしれないけど、熱が口に吹き出るタイプの人にはけっこうお勧めです。
唇閉じて頬を膨らませる。上唇や下唇の内側にも空気を溜めて膨らませる。そんで、あとは舌をストレッチ。頬や唇の裏側を舌でぐりぐり押したり、思いきりアカンベエしたり。正味1、2分ぐらい。それを日に3~5回。そうやって口まわりの血流をよくしてあげて、 血液による水冷をきちんと働かせる。
これをやってると、口内炎出来ても三日ぐらいで消えてくれる。痛くてご飯食べられない、ってなるちょい前ぐらいでなくなる。すごく助かってます。
いま、ふと思ったんだけど、だとすれば、これすべて、たんに血流の話ってことだけなのかも。
全身の血が歩くことによって滞りなく巡っていれば、さまざまな不具合も弱まってくれる。
起きてるあいだじゅう歩けばいいのか? 試してみる価値はあるかも。そのあいだすべての不具合を遠ざけられるなら。
ああ、でも五十肩はまだ完治せず。かなり動くようにはなったんだけど、先日、つい肩のこと忘れて木登りしたら、なんか肩の腱がブチッてなって、それからまたじっとしてても痛み復活。これは自業自得です。
神経面では、さほど大きな変化はなく、やっぱり過剰驚愕症とか解放性幻聴はあります。だから、興奮は相変わらずなんですね。さっきも、柿を口に入れたら、それがえらく美味しくて、「うまい!」って脳が感じるのと同時に、目の前に大きな光が炸裂しました。これは興奮が大きいときの典型的症状。大きな興奮が視覚野を刺激してしまった。
追想発作も頻度高いです。なにをしても、なにも見ても、すごく特別なことのように感じる。すべてが自分の中の一番大事な思い出と繋がっているような、そんな気分になってしまう。
頭の張りも感じます。血圧がやっぱり高いのかも。このへんが最後の課題かも。
体温が高く、血圧も高め、これが脳が望む常態なら、もうぼくはそういう人間なのだと思うのもひとつ。
どうあっても平均的人間にはなれないのなら、「あるがまま」を受け入れるのも。
この五十年でぼくはおそらく平均的男性の五百年分ぐらいはしゃべってきただろうし、やっぱり五百年分ぐらいは二本の足を動かしてきた。そう考えると、体温や血圧が高いのも当たり前って思えます。
このような生きものであると考える。
ランニングから歩行に変えてⅡシーズン目。
いま、ちょっと「恋愛寫真」を読み返してみたら、けっこう文章が硬いことに驚きました。
新作は、間違いなくいままでで一番やわらかい文体です。くだけている。ひらいている。優しい。
こういう文章で書くには、実はけっこう体力がいるんですが、それが自然に出来ているのは、やっぱり歩くことでなにかが変わったのかも。物事の見通しがほんとによくきくようになったんだけど、そういったことも小説に反映されているように思います。いままで繰り返し書いてきた「思い」に深みを与える。そんなことが出来たような。
これがもう最後の小説でもいいや、ぐらいにいまは感じてます。ひとつ残らず注ぎ込んでしまったので、いまは空っぽです。なんにもない。そのぶん、いっそう感受性が増して(過覚醒、超覚醒ですね)、自然からいろんなものを吸収しようとしているみたいです。