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 ほぼふた月、毎日、背中のストレッチとチューブを使った筋力トレーニングをしてきたんだけど、見た目の変化はまったくなし。下のは前に撮った写真ですが、今朝撮った写真と比べたら、少しも違いが見えなかったので、とりあえず一枚だけ載せておきます。

 身体の前側の印象より、いっそう痩せて見える。ブラックスワンのナタリー・ポートマンより薄いかも。
 こうやって脊椎の一個一個が見えてしまうのは、ちょっと問題ですね。
 筋肉がつかないのは体質なんでしょう。大学で、100キロ近いバーベルでベンチプレスしてたときでさえ、体重は58キロぐらいしかなかったし。

 まあ、見た目はともかく、肩の痛みはかなり軽減しました。努力の甲斐があった。
 いまは、身体を洗うとか服を着るとか、あとは横になって寝るとか、そんなときに痛むぐらい。まあ、そのために眠りが妨げられるのは、けっこうしんどいんですけど。

 あきらかに肩関節の位置が移動した。ストレッチ効果が大きいように思います。
 肩の位置が身体の後ろ側になった。
 そのために、肩胛骨が背中から少し浮き上がって、自由に動くようになった。

 これは新しい体験。
 すごく奇妙な感覚です。自分の身体なのに、自分の身体でないような。

 床に手とひざを付いて四つん這いになって、ぐっと身体を沈めると、肩だけがもとの高さに残されて、結果として肩胛骨が背中からぐぐっと隆起する。そのままの状態で背中をすぼめると、両方の肩胛骨がぶつかり合う。

 これがもう新鮮で新鮮で。日に何度もやってしまう。生まれて初めての(あるいは忘れていた)感覚。

 いままで肩胛骨は背中にしっかり固定されていて、それ自体が自由に動くことはなかった。それが当たり前だった。白鳥の湖は絶対に踊れない。

 でも、いまは肩胛骨がぐりぐり動くんですね。あまりに不思議なんで、一日中動かしている。
 自分の身体の、いままで知らなかった機能にこの歳になって気付く。第二次性徴期のときの、あの発見の日々みたいな。

 あと、目に付くところに「肩を下げる」って紙を貼っておいて、上がっている肩を下げる癖を付ける。
 これで気付いたのは、放っておくと、ぼくはずっと肩を引き上げているんですね。いわゆる首を肩に埋める、ってやつ。これじゃあ肩も凝る。

 たぶん、日に百回は「おお、肩を下げなきゃ」ってやってる。まだ癖にはならない。一年とか二年とかやっていくうちに、肩を引き上げないのが基本状態になっていくのかも。

 あとこれは「ためしてガッテン」で見た「歯を離す」ってやつ。これもやってます。
 まあ、これも気付けば、ぼくはいつも歯を食いしばってる。眠っているときが一番ひどい。夜中に何度も目を覚ますんだけど、そのつど「ああ、アゴの力抜かなきゃ」ってなります。

 それやこれやで、首、肩、背中の緊張をできるだけ抜くようにする。それが脳にフィードバックされて、脳自体の興奮もおさまる。

 というのが理想。


 でも実際はやっぱりそうも行かなくて、また薬飲み始めました。

 はっきり気付くんだけど、8月の13日に興奮期に入り、数日前にそれが終わった感じ。

 結局、漢方薬はじっくり効いて、ゆっくり抜けていくので、タイムラグがある。
 薬やめても、興奮の低位状態がずっと続いていて、それが副交感神経優位型のトラブルを引き起こしていた。

 八月上旬まではそんな感じ。

 13日にカチっとスイッチが入って、そこからは怒濤の嵐。感受性全開。ピークは一日中泣いてましたね。
 歩きに出て、数歩も行かないうちに、空を飛んでいる鳥を見て、もう感激して涙が出てくる。

 なにもかもが美しく見える。とくに自然ですね。黎明の光、雲、森、川、月、星、鳥――

 なんじゃらほい、って感じ。もう、自分でも呆れてしまう。

 で、この興奮期を使って、今年の前半いっぱい掛けて書いた長編をいっきに手直し。まあおおむね副交感神経優位のときに書いたものですね。薬のコントロール下にあったとき。

 ぜんぶ直しました。「なんだ、この眠たい文章は」みたいに思いながら、言葉をひとつひとつ置き換えていく。
 
 いつもこの状態だと助かるんだけど、これは長く続かない。
 やがて興奮が過ぎるようになって、トラブルのほうが多くなってくる(とくに不眠がひどかったです。超覚醒状態)。なので、タイムラグとかも考えつつ、八月末ぐらいから薬の服用開始。

 数日前に、超大型の突発性頻脈に襲われ、副交感神経の嵐が来たことを察知。
 そして、だんだんと感受性が落ちてきて、今日に至る。

 まあ、まだ緩い興奮期にあります。昨晩もずっと、誰もいない田園地帯の畦道に大の字になって、星と風に運ばれていく雲を眺めながら涙こぼしてました。そのうち、こういったものにも、あまり感じ入ることがなくなってくるはず。余韻ですね。薬ってほんとすごい。

 突発性頻脈はほんとにひどくて、怖いです。
 今回もまたなんか感じが違っていて、最初は息が詰まったんですね。喉が詰まるじゃなく、息が。
 冷水を浴びたときみたいな感じ。窒息する! って思ったんだけど、実は心臓のほうでした。
 水を飲んでもなかなか治らず、息止め、息の気張り、を何度もやって、ようやく、少しずつ治まっていってくれました。

 これはけっこう精神的なダメージが大きくて、それからはもう怖くてなにもできない。予期不安です。
 それがいっそう、気鬱状態を亢進させる。いまは完全に、精神の活性は下がり傾向です。まあ、あらかたは薬の効果なんでしょうけど。

 ほぼ、昨日、小説の手直しも終わったので、ぎりぎり滑り込みセーフってところでしょうか。
 これから先の脳の状態で手を加えても、むしろ平凡で当たり前の言葉やエピソードになるばかりでしょう。
 家族に読んでもらったら、全員号泣。「いまあい」以上の手応えを感じました。

 で、こっからがネタなんだけど、興奮期に付きものなのが、「声」なんですね。これを書いたことがなかった。
 いわゆる解放性幻聴の「音」とはまったく違う。こっちは聴覚野を介さない、完全に脳の中だけの声。

 そしたら、ちゃんと名前もあって、日系サイエンスに書いてあったんだけど、これを「マインドポップ」と呼ぶらしい。


 連想とは違い、まったくなんの脈絡もなく、とつぜん頭の中に言葉が浮かぶ。
 皿洗いをしている最中にふっと「オランウータン」という言葉が頭に去来する。いくら考えても、なぜ突然この言葉が頭に浮かんだのか分からない。それがマインドポップ。実際には理由があるらしいですが。

 ぼくは単語でなく、完全な会話ですね。しかも人格がある。中年男性だったり、若い女性だったり、あとよくあるのがイタリア人。まったくでたらめイタリア語を、えんえん誰かがしゃべり続けている。

 意識の二重性ですね。こっちの会話には、ぼくの顕在意識はまったく介入できない。それこそ勝手に話が進んでいく。ぼくは傍観者です。

 解放性幻聴と違うのは、こっちにはちゃんと意味があるってことですね。聞き取れる意味がある。そうとうに支離滅裂なんだけど、文脈は成立している。

 立ち聞き状態。すごく変な感じです。頭の中で誰かと誰かが勝手に会話している。
 ここに強迫感とか被害妄想が加わると、それは病理的な問題になっていくんでしょうけど、気分的にはまったくニュートラルです。問題はない。

 ひとつ気付いたのは、やっぱりそのときの気分が関連している。
 ぼくはスパイダーがすきでよくやるんだけど、その流れとこのマインドポップに深い相関がある。

 スパイダーやってるときは100%に近いぐらい、頭の中で誰かが勝手にしゃべってます。
 たぶん、無に近い状態なんでしょうね。
 で、エレガントに、段取りよくカードが並んでいくと、たいてい出でてくるのが、エコでオーガニックなお店の若い女性店員さんみたいなひと。自然食とかコットンのシャツとか売ってるお店の。で、そんなことをえんえんしゃべっている。

 で、手順が悪いと、それが不良っぽい男の人とかになる。またあるときは、イタリア人になるんだけど、それがどんな手順なのかは自分でもよく分からない。巻き舌で、ペラッペラしゃべっているんだけど、意味はまったく不明。

 ずっと昔からこのことは気付いていて、なんか「共感覚ぽいな」とは思ってました。
 うちの子供はすべての和音に色が関連づけられているんだけど、その感覚に近い。

 そこにまたマインドポップという現象が加わった。

 誰にでもあることです。程度の違いはあるけど。

  

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