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 前々回で書いた「ひとは日に10~15キロぐらい移動するように進化した獣」ってやつの、もとになったニュースに、根拠のひとつとして「前肢の短さ」が上げられていました。

 霊長類の中で飛び抜けて腕が短い。平地を二本足で移動するのに適している。

 これも進化。

 それで、あっ、と気付いたんですね。ぼくは前肢がやたらと長い。
 小学校のときとか、手をあげると肘から先ぐらい高いわけです。まあ、座高も高かったけど。
 当然「テナガザル」ってあだ名をつけられる。木に登ってばかりいましたし。

 つまりぼくは、現代人の中では、古い人間の型をまだ強く残しているタイプだと言える。

 骨が細く、体重が軽く、前肢――腕が長く、おまけに指まで長い(枝をしっかりつかめる)。完全に木登り向けの体型。

 まあ、これって実は「外胚葉型」の典型的体型でもあるんだけど、このタイプの人たちがみんな「猿っぽい」かどうは分かりません。分かるのは自分のことだけ。

 ふだんから気付くと爪先立ちしているような空間的な意味での「上昇志向」

 木登り、岩登り大好き。生まれつき(母親も)握力が強く、学生時代なんかビールの王冠の「早曲げ競争」なんかやってましたから。ぐいぐい曲げてっちゃう。これも猿っぽい。

 そして強い脳の興奮。前頭葉の抑制が弱いためですが、それはつまり、進化した最新バージョンの脳よりも、もうちょっと古いバージョンの脳で暮らしていることになる。だからパニック起こしやすいし、現代人がふつうにできるマルチタスクなんかがすごく苦手。

 「バカと煙は高いところに登りたがる」っていうのは真実で、ここでいうバカには、ぼくみたいな興奮が強く、多動で、おっちょこちょい、物忘れがひどく、あらゆる意味で不器用、みたいな人間も含まれるんだと思います。

 個としての記憶は引き継げなくても、古い種としての記憶は脳のどこかに刻まれていて、それが樹冠を目指すんだと思う。

 強烈な自然への感受性もそうです。いつも緑に囲まれていたいという強い欲求。
 逆に、自然への感受性が薄ければ薄いほど「現代人」として完成しているんだと思う。アーバンでラグジュアリーでモダンな生活に憧れる。聴く音楽も、より洗練され、複雑で、微妙で、構築的で、数学的な曲だったりする。

 ぼくが欲する音楽は単純で土着的でどこか宗教的な感じのするものばかり。

 こういった音楽は、ぼくの「野生」をさらに解放してくれる。どんどんと古いバージョンの脳が興奮してきて、すこーんとどこかへ突き抜けていく感じになる。人間としての煩わしい夾雑物をぶるぶるとふるい落として、生きものとしてのシンプルな形に立ち戻っていく感じ。

 ぼくの書く小説もそう。そのへんを目指している。猿的生活。
 普通の作家さんたちは「より洗練され、複雑で、微妙で、構築的で、数学的」だったりする。
 
 その中に猿が混じって猿的な精神性をせっせと書いているんだから、やっぱりはなからアウトサイダーなんですね。

 描き方としても、ぼくは語彙が少なく、憶えようともしない。っていうかその方向には興味すらない。
 チャンネルとしては、古い脳、獣の脳が新しい脳の言語野を介してなにかを語ろうとしているんだから、やっぱり独特なアプローチになる。

 共感覚的な、つまりは未分化的なメタファーとか、まず先に視覚ありきのテキストだとか、五感――嗅覚だとか触覚だとか、そういうものが前面に出てきたり、求めてるものが音楽的であったりとかする。

 思索、観念っていうのは、すごく新しい脳の機能っぽくて、そういうのは興味ない。ぼくのは具象的で、感情が基本で、自然主義的な宗教性を求めている。
 これこそが「猿の精神性」

 より人間に――それが前頭葉の機能の強化、抑制の強い精神ってことであれば、感情は薄れてゆき、より知性が前面に出てくる。情に智が勝つ。そのとき倫理観、徳性ってどうなるんでしょうね? 超人的な徳性を獲得できるようになるのか?

 本来は動物的=凶暴みたいに思われていて、ぼくはご存じの通り、弱虫毛虫ですから、そこがうまく当てはまらない。

 もしかしたら、狩猟採取時代とは言っても、このふたつはかなり長い時間、交わらずにそれぞれが進化してきたのかも。だから、現代でもまだどちからの色を濃く映すタイプがある。

 「動物的」にも大まかに言って、狩猟的動物と採取的動物のふたつがある。

 ぼくは肉が嫌いで果物大好きという典型的採取型。争いを嫌い、孤独を好む。共同でのハンティングよりは樹上生活に向いた体型。夢もいつも空に向かう。

 樹冠の閨で夜空を見上げていたときの夢を。

 ヒエラルキーに対する感受性が0で、死に対する感受性が異常に高い(狩猟、闘争生活では、この感受性が高すぎると『のけもの』『おみそ』扱いにされ、勇気がないものは女性の愛を勝ち取れず、子を残せない)。

 また保守的であるというのもそうですね。どんどん痩せ細っていく森に最後まで残った。
 新しい環境に対する適応力がすごく低くて、現状維持が最大の欲求。まわりの環境を変えて欲しくない。どうかお願いだから自然を壊さないで。
 この願いは本能であって、「環境を守らないと、いずれは人間自身にそれがはねかってくる」みたいな論理は関係ない。理屈ではないんですね。だから深い森をハイキングしていて、ガムの紙とかが落ちているとぞっとしてしまう。捨てたひとの心が怖くて。すごく深いところから来る感情です。

 あと思考が立体的というのもそう。
 でも、これってけっこう現代人の誰もにあって、インテリアとかで「縦使い」っていうのは重要な視点なんですね。
 平面よりもぐっとおしゃれ感が増す。平坦な土地より、横浜とか函館とか起伏のあるところがおしゃれに見えるのもそこから?

 頭の上になにかがあるとすごく安心。庭でもパーゴラにつるバラが絡まっていて、天蓋になっているとすごーく落ち着く。ベッドにもぼくはお手製の藍染めの天蓋を張っているし、子供の頃のお気に入りの場所は押し入れの中と、足踏みミシンのペダルの上。すんごく落ち着く。

 森の揺籃で暮らしていたときの感覚。樹冠が頭の上を覆っていて、そここそが安全な場所。

 パニック発作の多くが「広所恐怖」っていうのも、わかる気がする。この森の揺籃の対極ですね。

 だから、森を出て草原に向かったひとたちっていうのはやっぱり勇気がある。それを恐れなかったひとたち。
 勇気っていうのは克己心と死への感受性の低さ、あとは自分の中での優先順位ですね、命の順番、そんなものによって決まる。忠のためになら死ねるみたいな侍の感覚。

 だからやっぱりそういったパーソナリティーのひとたちとは大きく思うところが違う気がします。
 ずいぶんと長い時間、ぼくらはそれぞれの環境に対して進化し、ある方向を強化してきた。

 それが農耕時代になって混じり合って、様々なタイプになるんだけど、例の「バビル二世」じゃないけど、偶然、ご先祖様の血が強く出る個体が現れることがある。

 それが自分なんじゃないかと、つねづね思うんですね。

 現代人の中で、とりわけ「樹上採取生活」をしていたご先祖様に限りなく近付いてしまった。それが答えなんじゃないかと。

 だから、すごく不適応を起こし苦労している。森の猿が、アーバンでモダンでハイパーインテリジェントな現代の都市生活を送っているわけですから。

 なので、いまもいつも夜の闇を「味わって」ます。ほんとにものすごく気持ちいい。うまいものより、お酒なんかより、ぼくにとっては夜の闇が最高の嗜好品。最高の快楽。

 半径二キロ以内に誰もいないような日没後の田園に出掛けて、夜を浴びる。

 仰ぎ見る状態にすると、視野の中に空以外はなんも見えなくなる。360度すべて夜空。コウモリは飛び交ってますけど、それはまあいいです。

 先日、まだ暗くなりきる前にそこを歩いていて、片側が五十メートルぐらいの厚みがある数キロ続く防風林なんだけど、いまはスイカズラの匂いがすごく香っていて、それもあっただろうし、木々の葉の隙間から、けっこふっくら膨らんだ月がずっとぼくを追いかけるようにして見えていて、この風景は太古から変わらないんだろうな、なんて思っていたら、雨上がりの濡れた大木の枝に、鮮明に裸の男が蹲っている姿が見えて、おお! って興奮してしまった。夜に近いからモノクロで、これは絵になるなあ、と感じました。

 写真撮ってみたい。モノクロで。濡れた巨木の高い枝に蹲る全裸の男の写真。女性も一緒にいてもいい。
 梢の隙間から月が見えていて、枝から垂れ下がるスイカズラの花がハイライトのように浮かんでいる。
 
 誰かにとっての強烈な原風景。

 まあ、このことが言いたくて、長々書いたわけです。体調はどん底なんだけど、それについては後日。


 
  


 


 


 

 
 


 
 


 


  


 

 

 

 

 

 

 

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