なんやかやもろもろのこと
まわりのひとたちは、そろそろみんな抜けてきましたね。安定期に入った感じ。肌の炎症や胃腸の不具合、耳鳴り、めまい、みんな治まってきた。
ぼくはまだぐじぐじやってるので、ひとり居残り勉強させられているみたいな気分です。
こうなってくると季節の変化のせいばかりじゃない。
先生からは「頭の使いすぎだ」とは言われてますが。
それが首の緊張を生み、肩に広がり、いまひどい五十肩になってます(四十肩と言いたいところだけど、もうまもなく五十なので)。両肩ですね。もう二ヶ月ぐらい。それが肩、胸部の凝りになり、胃の痛みにも繋がっている。
漢方薬は黄連ひとつにしぼってます(これも胃痛を引き起こす原因になるんですが)。
ただ、いろいろ調べると、黄連はかなり強いみたいですね。効きすぎる危険もある。
実感してます。不気味なほど興奮が抑えられる。常態が副交感神経優位になる。
変な感じです。
ひと月ほど前までは、その移行期で、交感神経優位でありながら、副交感神経の働きも強まってきて、それがときおり発作的に高まると突発性頻脈や下痢の症状となって現れていた。
いまは副交感神経優位で、日に数度、交感神経の興奮が発作的に襲ってくる。逆転した。安定剤飲んでいたときに似ています。なんかこれって二重人格の人格の交替に似ていますね。よくそういう物語がある。
不気味なほどよく眠れます。ああいうのはほんとに怖い。経験がないので。
完全な意識の断絶。起きたときに寝ているあいだの時間の経過の感覚が残っていないので、一瞬なにが起きたのか分からなくなる。いまが何時なのか、昼なのか夜なのか、ここがどこなのかさえ。
なんかそのあいだだけ死んでいるみたいな気さえします。
これが一般的な「眠る」ってことなら、ぼくの「眠る」はまったく違います。ものすごく賑やかで、ありありと実感があり、密度が濃く、「眠る」という体験をしっかりと意識している。あんな――ただの記憶の断絶とはまったく違う。
夢も見ません。見ても朝には忘れてしまうようなどうでもいい夢。日常的で逸脱のない、不毛な、まったく意味のない、つまらない夢。空飛ばないし。
追想発作も、追想の亢進もありません。ちらっ、ちらっと、過去の断片が蘇ることはあっても、現実感に乏しく、感情の高揚もない。
解放性幻聴も治まっています。ちょっと前までは毎日聞こえていたのに。きれいさっぱり消えました。
あと、尿が透明になる。体温が下がったのかもしれない。ぼくはふだん尿が濃いんですね。一般の人が熱を出して寝込んだときのあの状態。つらさはなくても体温が高いことに違いはないから、尿もふつうのひとの風邪の時みたいに濃くなる。それがなくなった。
過覚醒から低覚醒へ。
過剰驚愕症も治まったし、頭皮の荒れも、眼球の熱感もない。
なんだけど、これは違う、という思いが強い。これはぼくではない。不全感。違和感。
小説の執筆もなんか平凡。もともと乏しい前頭葉で、お行儀よく書いている。逸脱も飛躍もない。そもそも、映像が「見えない」。創造ではなく知識の寄せ集めみたいな書き方。モチベーションが弱い。あの止むに止まれぬ切実な感じが湧いてこない。
なので、ここ半月ぐらいに書いたものは全部書き直すと思います。
胃痛のこともあって今日から黄連を止めようと思うので。これで完全に漢方薬すべてを止めました。どうなるか。
つらつらと昔買ったジェイ・マキナニーの「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」を読み返していたら(あの頃、彼は若かった。あのハンサムな新進気鋭の作家はどこへ?)、演劇の授業の場面で「ノーマルな人間は幻想と現実の違いをい知っていて、感じる衝動そのままに行動する必要はないんだけど、俳優はその幻想世界に一歩踏み込んで、それを利用する」みたいな言葉があって、ああ、と思いました。
例の「夢の効用」です。ひとは夢であらかじめ狂気に落ちいることによって正気を保っている、というやつ。
だから、脳が異常興奮しているときは、強烈な、しかもとことん逸脱した、いわば失見当識の夢を大量に見るし、脳がその必要を感じないときは、どうでもいい夢しか見ないし、憶えてもいない。
そして夢を真似る行為がある。創造ですね。小説を書く、絵を描く、音楽を奏でる、踊る、さらには、今回気付いた「演じる」。
つまり(一部の)俳優さんは、「やむにやまれぬ切実な思い」のために演じている。おそらくは本人も気付かぬままに。そうでない俳優さんもいて、そのための方法論なんかが発達して、だからよけい分かりにくくなっているんだけど、本来「演じる」ってことは、そういうことなんですね。シャーマンの無意識的パフォーマンス。
だからとくに向こうの俳優さんなんかはリハビリセンターと縁が切れない。
「睡眠薬と名女優はワンセット」というのも分かります。自己顕示欲だけでタレントになったひとたち――それは他の創造性も一緒だけど、とにかく、目的が先にあって、なんでもいいからできそうなもの見つけて利用する、というひとたちとは、やっていることの根本的な意味が違う。
存在としての演じ手がいる。そういうひとたちは見ているだけで惹き付けられる。目が離せない。そういうものを見たい。なぜなら、そこに没頭することは、それもまた「夢を見る」ことだから。
もし社会が、興奮よりは抑鬱に傾いていれば、こういった俳優はあまり必要とされないでしょう。ふうつの俳優のただのから騒ぎのほうがむしろ親近感によって評価を受ける。
結局、ひとのいとなみの多くは「恒常機能」ってことなのかも。
脳が求めるレベルにすべてを落ち着かせるための行為。
食べるのは体内のエネルギーの蓄えを一定の状態に戻すため。眠るのは疲労を一定の状態に戻すため(他の説もいろいろあるけど)。セックスをするのは高まった性欲を一定の状態まで戻すため。
恒常機能。
唄うのも踊るのも、高まった興奮を逃がすため。泣くのは高まった緊張をほぐすため。悲しみをあるレベルまで下げるため。老人が徘徊するのも前頭葉の機能後退によって高まった興奮を逃がしてあげるため。
そうやってひとはある状態に落ち着いていく。
逆に活力が下がれば、ひとは動かなくなってエネルギーレベルを上げようとする。カロリーを使うことにケチになる。歩かなくなり、食べてばかりで、真の意味での――夢の代替としての創作を必要としなくなる。ただの暇つぶしを求めるようになる。咀嚼しやすい、脳のエネルギーを必要としない、説明的で表層的な、ゴシップのような身近な物語。
ていうか物語そのものを必要としなくなる。
ぼくもそうです。小説読まない。物理学や医学の啓蒙書ばかり読んでる。ビデオはまだいいです。すごく受動的でいられるから。
こんな状態のとき、ひとは創造することを欲しない。創造ってすごく能動的なんですね。面倒臭い。
ゲームは受動的な気がする。なのでゲームはよくやります。といっても、ぼくの場合はパズルですけど。三度の飯よりもパズルが大好きなので。
とにかくすごく痩せてしまったので、体重戻すためなら、この状態もいいか、なんて思っていたんだけど、結局胃痛になって、体重も戻る気配を見せないので、またここで人格に交替してもらいます。薬を抜いて、本来の自分に。季節が夏なので、それでもきっと大丈夫なような気もするし。
この世間を覆う低覚醒の状態って、つまりは子供たちが親ではなく企業に育てられているから? なんて思ったりもします。
「企業の子供たち」
親やじいちゃんばあちゃんの匂いではなく、企業がつくった匂いに包まれて育ち、企業が工場でつくった食品を食べて成長し、企業がつくった音や映像に囲まれて大きくなっていく。企業がつくった物語――ゲームやビデオに没頭し、企業がスポンサーとなったTV番組を毎日見て暮らす。
ぼくらはみんな「企業の子供たち」なんですね。なんかSFっぽい。それに見合った文化。企業がどこまで消費者の幸福を願っているのか。それによって子供たちの将来は決まります。ここまで深く子供の育成にコミットしているんだから。つまり企業は自分たちの手で自分たちの消費者を育てているんですね。企業はぼくらにどういう消費者になって欲しいんでしょうね。
ひとつだけ確かなのは「ものを買いたがるひと」にはなって欲しいでしょうね。いっぱい食べてくるひとも好きそう。そいで体調が不安になったら、まめに検診受けて、数値がちょっとでも平均からずれたら薬とかサプリメントとかいっぱい飲んでくれるひと。そいでダイエットやアンチエイジングにもせっせとお金を使ってくるひと。
そういう人間になってくるように願いながら、企業は大事に大事にぼくらを育ててきた。
なので企業がスポンサーとなっているマスメディアはTVも本も、いわば大事な子供たちに読ませる教科書として、ぼくらに大切な情報を与え続ける。
B級グルメ、ご当地名物、食いしん坊レポーター、新製品のニュース、こういう症状が出たら実はこんな病気、一ヶ月で十キロ痩せました、ラードいっぱいなラーメン情報、でもアンチエイジングはしたいから、抗酸化化粧品、ダイエットグッズ、名医を紹介、すべてがいまやニュース番組で放映される。
お祖父ちゃんの匂いは加齢臭、お父さんの汗じみの匂いは気持ち悪い、家の中は雑菌だらけ、口の中はばい菌の温床、そういったものを全部なくしちゃいましょう、と言って、世界が除菌消臭されていく。
赤ん坊がかぐのはお父さんの匂いではなく石油由来の人工香料。耳に聞くのはお母さんの子守唄ではなく、圧縮デジタル化された音楽。0歳の時から、企業はすっかり消費者を覆い尽くしている。
欲望に抗えないひとは優等生です。どうしても食べてしまう。そして医療のお世話になる。
あるいは、食べたいだけ食べて、さらにはアミノ酸とかも摂って、がんがん身体動かして、活発に活動しているひともやっぱり優等生。消費者という意味では。
腹八分目でやめちゃうひと。ダイエットとは無縁で、サプリも興味なし。よく歩くけども、金を払ってまで運動はしない。十年ずっと同じ服や靴で過ごしている。こういうひとは消費者学校の劣等生。ちゃんと教科書読んだのか? と叱られる。じっさい読んでないし。いまや資本主義社会のアウトサイダーですね。
腹八分目どころか腹十二分目ぐらいまでみんな食べる。
そうするとどうなるのか。これは勝手な推量だけど、「ハングリー精神」ってあるじゃないですか。きっとあれがなくなる。あれは比喩でなくて、本当にそうなのかも。低カロリー状態にあると、それはつまり狩猟採取時代なら、食物を得るための活動を強いられるわけで、それはそのまま捜索、戦闘モードになる。ハングリー。
身体と精神が活性化して、五感がよく働くようになる。果実や獣の匂いに敏感になる。動くことに積極的になる。
でもいつも満腹だと、あるいは満腹以上だと、身体は休養モードになる。五感は鈍くなり、動く必要も感じない。
それが一種の抑鬱的状態?
このあいだ読んだ科学ニュースに、ひとは「もっとも走る獣」のひとつだという記事があった。
三十分いろんなほ乳類を走らせてそのあとで血液調べると、報酬系のホルモンが人間はいっぱい出てた。本来的に動かないほ乳類はまったく出ていなかった。
つまり狩猟採取時代につくられた生理がまだいまも続いている。
古代の痕跡を見ると、当時の人間は一日に15キロから20キロぐらいは移動していたらしい。
また20キロという数字が出てきました。お伊勢参りやお遍路さんの20キロと一緒。つまり人間の生理にかなった数字なんですね。
でも、現代人は動かない。満ち足りすぎているので動くためのモチベーションが働かない。
五感も鈍く抑えられている。
そのせいなのかなんなのか、なんかひとびとの表情がおかしくなった。感情に乏しく、さもなくば妙にテンションが高い。うつろな高笑い。もちろん、当人たちはそのことに気付いていない。傍若無人なひとがすごく多くなった。自分の権利にはすごく敏感で、だけど他人の気持ちにはすごく鈍感。
なので――
その逆なひとたちを主人公にした小説を書いてます。ものを一生大事に使うひとたち。ひとの気持ちにいつも気を配ってるひとたち。世界の終わりを舞台に、いくつかの恋愛が進行していく、そういう話です(なんか現実にも、そういったひとたちの潮流も見えてきたような気もします)。
まあ、「続、そのときは彼によろしく」みたいなところもあります。登場人物はまったく違うんだけど、やってることとか言ってることが。