良くなったこと、良くならないこと、
おおむね立春を越えたあたりから春の不調期が始まりました。
今年は例年と症状が違い、これはやっぱり「徘徊」を続けたせいなんだろうな、と自己分析してます。
何十年も走り続けてきて、それを歩きに変えることがどうちがうのか?
なんかの雑誌に歩行(ランニング)速度別の脳の活性領域が載っていたけど、やっぱぜんぜん違うんですね。
おそらくラニングのほうが動きとしてアグレッシブなんだと思う。「狩り」とか「逃走」とか、そんなときの動き。
歩行はもっと静的ですね。いわゆる日常。
脳の活性領域が違えば、きっとスイッチの入る遺伝子や内分泌も違うはず。
「徘徊」を初めて四ヶ月ほどですが、大きく変わったことが幾つかあります。
良くなったこと。
●腰痛
これは十代の頃からずっと苦しんでいるんですが、とくにここ二年ほどがひどかった。それが歩き始めてから、ずいぶん軽減しました。
毎朝、すぐにはまっすぐに立つことができず、しばらくは腰を曲げたまま動いていて、徐々に人間に進化していく感じなんですが、いまはすぐにまっすぐ立つことができます。
あと1時間ほど車の運転をしたあとも同様です。これも楽に動けるようになった。痛みのマックスが10としたら、いつも6~7あった感じが、いまは2~3ぐらいまで軽減しました。まったく痛みの無いときもあります。
●頭のはり
ほとんど感じなくなった。去年の秋以前は、ひどいときは頭が破裂しそうなほどはるときもあったのに。「スキャーナーズ」みたいに。
測ってはいないけど、同時に血圧も下がったはず。
あと、ほてりですね。頭部、頬や耳の熱感も、何十年ぶりかで、まったく感じない冬でした。
●めまい
それと耳鳴りですね。これは頭のはりとも連動しているんだけど、けっきょく一緒に消えてくれました。
たまに出るけど、以前の1/10ぐらい。メニエルを思わせるような、激しいめまいもなくなりました。
いまのところですが。
●不整脈
消えてはくれないけど、去年の秋の1/10ぐらい。突発性頻脈はあれ以来一度も来ていません。
腰痛以外は、「循環器系」で括れると思う。心臓と血管ですね。それのコントロールが前よりもうまくできるようになった。エラーが少なくなった。運動はいずれにせよ循環器系の状態をよくすると言われてますが、ランニングでうまくいかなかったことが歩くことでうまくいくようになったのがミソ。ひとによるんでしょうが、ぼくはランニングで興奮しすぎるのかもしれません。
●胃痛
これは微妙。総じて良くはなっているんですが、油断はできない。
立春以降、またぞろ悪化していたんですが、徹底して甘いものをカットすることで、なんとなくコントロールできてる感じ。ショ糖が胃に入ると消化器系の動きが悪くなる気がする。そうするともたれたり、胃酸過多になるから、できるだけそうならないように気を付ける。
まあ、以前なら、なにをやっても駄目なときは駄目だったので、それよりはいいのかと。
●頭皮の炎症、血のかたまり
これも頭部の熱感と連動して軽減。中学の頃から頭部の皮膚病では苦しめられていましたから、なあんだ、って感じです。これはでもむしろ例の「オメガ6とオメガ3」の比率をただすことで、炎症体質が改善されたってことなのかもしれない。花粉症がどうかですね、この春の。
ああ、あと髪の丸まりがぐっと弱くなった。くるくる天パーが「癖っ毛」ぐらいに。これも頭部の熱と連動。
良くならないこと
●不眠
これは……
ほんとに難しい。前にも書いた「過覚醒」のレベルがまたひとつ上がった感じ。身体に出ない分、神経に出る。
厳密な用語ではないんだけど、わかりますよね?
とにかく、すべてが亢進している。不眠というのは、眠る力がないタイプと、起きる力が強すぎるタイプがあるように思うんだけど、ぼくは後者。
これで疲れなきゃ、ずっと活動していたいくらいなんだけど、ぼくはすぐに眼とかが疲れちゃうんですね。ままならない。
不眠のレベルは確実に上がりました。朝まで一睡もせず、っていう日もある。ほんらい、夜の眠りが悪い翌日は昼間眠いものなんだけど、いまは引き続き翌日も「過覚醒」が続行中って感じです。
●過剰驚愕症
これは前にも書いた通り。でも、これって全方位なんですよね。「情動の亢進」の一部。
期待や悦びでも胸がかっと熱くなる。以前よりも、感情に伴う生理的反応があきらかに大袈裟になっている。なんというか、アイドリングが高めな感じ。いつでもすぐに吹き上がる準備ができている。
●ある種の神経症
まあ、いろいろ。そのつど症状は変わりますが、だいたいぼくの場合は自律している行為を意識してしまって、それで生活の質を落としてしまうってやつ。
●感覚中枢の異常
これが一番ひどいかもしれない。聴覚、視覚、いろいろ
過敏になるだけでなく、大脳から感覚中枢への逆流も起きている。共感覚的な症状もさらに亢進。
前にはなかった閃輝暗点の発作も起きるようになった。そうでなくても、目の前に閃光がぱしぱし浮かんだりして煩わしかったのに(これは共感覚的症状。音の刺激が原因で起きていることは間違いないので)、ますます自分の「視覚」というものが信頼できなくなってきた。
その他、追想発作や情動の亢進等、どれも「身体」というよりは「神経」にターゲットが移った感じ。
引き続き、オリヴァー・サックスの「音楽嗜好症」を読み、そこでまたぼく自身の症例と重なる記述を見つけました。
側頭葉てんかん発作に苦しむ女性の話として、「追想の感覚――とくに自分は10代だという感覚や、10代の自分がいる場面を追体験する感覚――が生じる」それは「ヒューリング・ジャクソンが『心の複視』と呼んだ意識の二重化である」
ぼくのも、いわゆるフラッシュ・バックよりも、よほどこちらに近い気がします。「夜の燕」の中でも繰り返し描きましたが、この「心の複視」――あるいは、「意識の二重化」という感覚が一番しっくり来る。ここにいながら、14歳のある日のある瞬間を同時に体験している。
ヒューリング・ジャクソンは側頭葉発作の前に起こる前兆の特徴として「夢幻状態」「デジャヴー」「追想」について語っている。「そのような追想の感覚には確認できる内容がまったくないこともある」と言及している。
これもそうです。言語化できない「妙な感覚」がある。たしかに、「そこにいる」という感覚はあるんだけど、それにともなう情報をなにひとつ思い出せない。ぼくはこれを感情の記憶と呼んでいます。
どこで読んだかは忘れたけど、これもサックスの本の中で「情動の亢進」という言葉があって、これも自分のことだと強く感じました。
おそらくは側頭葉の興奮が引き起こすんでしょうけど、日に何度かこれが起こる。
おもに、「歓喜」ですね。感じ入ってしまう。美に対する感受性が異常に高まる。
なんでもいいんです。雲だとか、木々の梢だとか、田んぼに張った氷だとか、それを見て、感極まってしまう。
涙が零れてくる。ものすごく昂揚して、胸が「熱くなる」
ほとんど反射的に母に向かって呼び掛けます。こんな美しい世界に生んでくれてありがとう、って。
で、しばらくすると醒めてきて、まあ、ちょっと大袈裟だったよな、なんて思う。
でも次の日になるとまた同じことが起こって、同じように母に呼び掛けてしまう。
昨日がひどくて、それがほぼ一日中続きました。涙も涸れてしまいます。夜、風呂に入っていてもまたそれが来て涙ぐむ。
まあ、いいんですけどね。安上がりだし。どこに行かなくても、最大級の感動を日々体験できるんだから。
おおむね、「追想の感覚」と「情動の亢進」は連動しています。それに驚愕症も。
すべては脳の興奮が引き起こす。
こういうときは、日常生活がまったく駄目になる。やることなすことが支離滅裂。文章も書けません。車も運転しないほうがいい。
奥さんからは「あなたお願いだからなにもしないで」と言われます。
だとすれば、これは前頭葉の機能低下が原因なのかもしれない。事務的な能力が著しく低下するのと同時に、ブレーキから解放された側頭葉が生き生きと活動を始める。
夢を見るように日々を生きる。夢の中で暮らす。そんな感じ。
この感覚を小説であらわしたい、といつも思います。歓喜、切なさ、郷愁、追慕の情、さらには、言葉にできないなにか。
ここ数ヶ月、何年かのあいだ治まっていた驚愕症がまたぶり返してきて、どんなもんなんだろう、とインターネットで調べてみたら、そこで過覚醒という言葉を知りました。なんかすごくぴったりくる言葉。目覚めすぎてる。
一般的にはPTSDの特徴のひとつと言われているらしいけど、ぼくは生まれつきなので、そこには当てはまらない。
不眠や緊張もそうですが、過剰驚愕症もこの症例の中に含まれます。
とにかく、びっくりしやすい。とくに音ですね。町なか歩いていて、かなり遠くでクラクションが鳴っても、飛び上がるほど驚いてしまう。心臓がどくん! って大きく打って熱くなる。
このあいだも、ある対談で話題にしたんだけど、この心臓の熱感って、原因はなんなんですかね。まさか本当に心臓が熱くなるわけないから、アドレナリンかなにかの分泌を「熱い」と感じてしまうってことなんでしょうけど。
どれだけのひとが、この「胸が熱くなる」のを、比喩表現としてでなく、実感として感じているのか。
この「言葉では聞くけど、実際に体感しているのかどうか」という問題。
オリヴァー・サックスの「心の視力」という本の中で彼が引用しているバートランド・ラッセルの言葉。
「記述による知識」と「見知りによる知識」のあいだには橋のかけられない深い溝があり、一方から他方に渡る道はない――
知ること、知ってることと体感すること、経験することは、すごく違う。
「心の視力」に書かれていたんだけど、たとえ両目とも正常な視力を持っていても、ひとによって、その見えている世界の「深度」「奥行き感」はまったく違っているらしいです。
立体視を測ることのできる画像を見たとき、あるひとはそこに描かれた棒の先が3、4センチ浮き上がって見え、別のひとは12センチ、サックス自身は17センチも浮き上がって見えたという記述もあります。
何気なく見ている世界ひとつ取っても、ひとびとはこれほどにも違う受け取り方をしている。
多様性、相対性ですね。
だれもが、ある事柄に関しては豊かな感受性を持ち、また別の事柄に関してはまったくの不感症だったりする。
あるひとたちが豊かな経験をしているとき、その事柄に関して不感症の人間は、なんてつまらないことに夢中になっているんだと思いがちです。
そして「自分はそれを楽しめない」と言う代わりに「それは間違っている」とつい言ってしまう。
「心の視力」には「視覚心象」のことも書かれてあります。そこにないものをどこまで鮮明に想像できるか、という能力ですね。
これも驚くほどひとによって幅がある。まったく想像できないひともいれば、現実と同じか、あるいはそれ以上に鮮やかに想像できるひともいる。
同じ小説を読んでも、ひとによってその「読書体験」はまったく違っている。
あるインドの高名な教授かなんんかが、われわれの体験の多くは、けっして言葉では伝えられない。もし自分の人生を言葉で記述できると言うのなら、そのひとは、本当の人生を生きてはいないのだ、みたいなことを言っていて、たしかにそうだよなあ、って感じました。
「あの感覚」は言語化できない。本一冊かけて、なんとかそれに近付こうとする。
自分の深層に触れる感覚。非日常的で、直感的で、とても古く、それ故にシンプルで力強い。
人間の原型が感じていた世界。
脳の興奮が高まると、そのことばかり考えてしまいます。