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吸涙鬼と神話

 発売から半月が過ぎたので、そろそろ読了した方もいらっしゃると思います。

 この小説のクライマックスは実はエンディングではなく、冬馬が美紗の病を治療する場面だと、書き手であるぼくは思っています。あきらかに重心はそこにある。話の密度もそこだけが突出して濃いですし。

 読んだ方はすでにお気づきだと思いますが、彼女の死と再生は、神話の不死鳥の物語と重なっています。火の中に飛び込み焼死し、その中からまた新たな生命となって蘇るという、あの有名な話。生まれ変わるには一度死ぬ必要があるわけですね。熱によって。
 
 また、この治療の場面は、あきらかにセックスのメタファーともなっています。
 冬馬が美紗の中に注ぎ込む熱。彼女はそこで自分自身を孕み、新たな自分を産み落とすわけです。

 ぼくはあの場面にさまざまな要素を込めています。どの場面もが多義的であり、象徴主義的である。

 まあ、別にそこに気付かなくても、少しもかまわないんですが。そういう楽しみ方もあると。

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吸涙鬼の眠り

  「吸涙鬼」が発刊されて五日ほど経ちました。一度だけ比較的近くの書店に見に行ったんだけど、新刊や文芸のコーナーにはなくて、探したら児童書やYAのコーナーにひっそりと置かれてあったので、「ああ、こんなものなのかな」と妙に納得したり。あまりにブランクが長すぎましたからね。

 ここ数日は体調が悪化して、ほとんど横になってすごしていました。
 こんな状態で自分の本の発刊を迎えたのは初めてのことです。

 昨日は起きてちょっと食事を摂る以外はほぼ24時間眠り続けてました。
 四十数年分の不眠症を取り戻すかのように。

 自分の書いた小説との奇妙なシンクロに、ちょっと気味の悪さを感じています。
 なにもここまで現実が虚構を辿らなくても、と。

 おそらくは半年ほど飲み続けてきた薬が徐々に体質を変え、ここに来てそれが一気に症状に表れたのかと。

 脳熱と興奮の低下。
 気付いたのは、いつのまにかチックがなくなったこと。激しい貧乏揺すり、前後に身体を揺らす癖、目をしかめる癖、これらがほとんど消えていた。
 あと、食い縛り癖も。いつもウトウトし始めると、決まって眉間に皺を寄せ、歯を食いしばっちゃうんだけど、それがなくなり、気付くと口を開けて眠っている。

 これは生まれて初めてのことなので、すごく奇妙な気分です。

 代謝が下がり、活動量が減って、いつも半分眠りの中にいる。そんな状態。
 これは自分には馴染みのない状態なので、ひじょうに不快です。あいかわらず胃の痛みは取れないし、自分が自分でなくなってしまったようで、どうにも心許ない。

 奥さんから「あなた馬鹿なことやらなくなって堅くなった」とも言われ、人格にもそれが表れているようです。

 サヴァンの「あるがままに愛したい」のレッゾを思い浮かべます。薬物によって人格が丸くなり、ふっくら太って、才能の欠片もなくなってしまった男。

 でも、「吸涙鬼」的に考えるのなら、これこそが極限に達したときに発動する本能的な緊急措置なのかも。

 どこまでも眠り続け、そのあいだに失われていた陰液を補充する。 
 自分でそう書いたんだから、きっとそうなんでしょう。

 半覚醒の日々の中で、無数の夢を見ます。
 亡くなった母親が出てくることが多い。夢は死者と出会う場所。いつもその思いがある。
 眠りさえすればまた会える。

 ただ、昨晩の夢は少し奇妙でした。
 母とも妻ともつかない若い女性と、延々と交情を繰り返す。ぼくの中で、彼女は亡霊であり夢魔でもあるという認識。なんとかこの行為を止めようと、ぼくは彼女の下腹に経文を書きます。ただ、どうしても最後の文字が思い出せず、うまくいきません。
 
 場所がどこか緑豊かな庭に変わり、ぼくは樹木の根元で彼女が背中を見せた隙をついて、その尻に経文を書きます。今度はうまく行き、彼女は胎児のように身体を丸め、眠ってしまいます。
 ぼくはほっとして、一度はその場を離れようとするんだけど、振り返り、その姿を見た途端、はげしい愛しさと後悔の念に襲われます。ぼくは駆け戻り、泣きじゃくりながら彼女を抱き上げ、どこかへと歩み去っていきます...

 なんか自分が書く小説そのものだな、と思いました。小説は夢。

 これを書く前に、前回までのブログを読み返したんだけど、かなり入れ込んでますね。
 多くの人たちにとって、「んなこた知ったこっちゃない」というのが読んだ感想でしょう。
 いつもはそれが分かっていて、どこかに自分で自分を突き放すような文章を入れたりするんだけど、ここのところの体調が、なんか客観性を失わせてますね。
  「あなたは自分の小説と心中しようとしているように見える」とも言われましたし。


 先生からは「あんたは、その客観性があるからまだ正気を保っていられるんだよ」とも言われているので、ちょっと正気を失い欠けていたのかもしれません。
 脳熱が下がって、また自分を俯瞰できるようになった。

 なんにしても眠りです。なんだろう? この不気味な重ったるいベールは。
 人生の中でかつて経験したことのない感覚なので、ちょっと恐いです。むしろ冬馬より美紗の感情に近いかも。
 

 

 

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吸涙鬼。その弱さについて。

さっき奥さんに、「もし、ふたりで街を歩いていて不良たちにからまれ、ぼくが『逃げよう』って言って、きみの手を引いて逃げるんだけど、結局追いつかれて、ぼくは怯えて抵抗することも出来ず、不良たちのなすがままになっている姿を見たらどう思う?」と訊いたら、「ちょっと情けなく思うかもしれないわね」との答え。
「それが『吸涙鬼』って小説なんだよ。実は、ひどく情けない話なんだ。普通の人間たちから見たら」
 
 

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吸涙鬼について。悪意と不寛容。

 講談社からの依頼で書いた宣伝文

「この世界。この国に対する強烈な違和感。自分はなぜこうまでひとと違うのか? その虚構的解釈としての物語。
 なぜひとびとはこうも他者を否定することにやっきになっているのか。現実でも創作物の世界でも。否定すること。憎むこと。妬むこと。豊かさではなく乏しさを描いた世界。現実に目を向けるんだといいながら、彼らは負の心をむさぼります。
 『吸涙鬼』は、彼らではなく我々の物語です。愛とは生きて欲しいと強く願うこと。肯定し、受容し、赦し、そして生かす、育む。情熱と官能。熱を帯びた感傷。死と再生。吸涙鬼という存在に与えた体質の多くは、現実にぼく自身が背負っている業のようなものです。そして彼が愛する少女の個性はぼくの妻から。水と火の邂逅。陰と陽。生まれる遥か前から惹かれ合うことが約束されていたふたり。
 この小説は、ぼくの仲間への呼びかけ、我々はここにいるぞという、ささやかなる烽火でもあります。もしかしたら、あなた自身が吸涙鬼なのかもしれないのです。」

 これは小説の中の一文。

         ******

「ある種の感受性の問題なのかな」と彼は言った。
「悪意や不寛容に対する過敏症。きっとそれは行きすぎた生存本能みたいなものだと思うけど」 
「そうなの?」
「うん」
 子供の頃からいつも怯えてばかりいた、と彼は言った。
「他人が言い争っているのを見るのがとてもつらかった。映画やTVドラマの中の出来事でさえそうだった。他の子供たちがホラー映画の残酷なシーンで目をつぶるのと同じように、ぼくは登場人物たちのちょっとした諍いや、独善的な人間が振りかざす正義の場面でも目を覆ってしまうんだ」
「わたしも同じよ」
「そう?」
「ええ。わたしも誰かが責められている場面を見るのがつらかった。でも、そんな物語ばかりのなのね、世の中って。わたしは自分がひとと違うってことに気付いていなかったから、どうしてみんなは、わざわざこんな苦しい思いをするためにドラマや映画を観るんだろう? って不思議に思ってた」

       *******
 
 登場人物たちが、さんざんつらい目に会い、最後にはそれにもめげずに幸福を掴む、というのは物語の王道ですが、その最後のカタルシスを得るために、物語の中にどれだけの悪意や不寛容が盛り込まれるのか。

 ひとびとが自分の権利にひどく敏感になり、他人の権利には鈍感になっていること。
 自分の不快感を拭うことに熱心で、他人の不快感を気にしなくなっていること。

 それとなにか関係があるのか。

 たとえば、道で肩が触れ合ったときに、無意識のうちに「ごめんさい」と呟く者。そしてそうでない者。

 たとえば、交差点で左折、右折の車を待たせるのが申し訳なく、つい小走りで横断歩道を渡ってしまう者。そしてそうでない者。

 わたしたちと、そして彼らと。

 ある意味、泣き寝入りの一族とも言えます。吸涙鬼は。つけ込まれ、譲歩し、さらにつけ込まれ、さらに譲歩し、どこまでも毟り取られてしまう。
 だから、強くなる必要があった。根絶やしにされないために。

 生きたい、生きてほしい、という強い思い。「吸涙鬼」という小説はぼくの祈りの言葉です。
 彼らが獲得した不死性。そして愛する者の病を治す神秘的な能力。
 これ以外の在り方は考えられなかった。
 悪意や不寛容から逃げのびるための強い脚。

 「世界中が雨だったら」より。

  「わたし好きでした」
 彼女が言った。
「戸川くんのこと、好きだった」
 なんと返せばいいのか分からなくて、押し黙ったままでいた。
「彼は誰とも違っていた」
 確かめるような視線を向けるので、そうね、と頷いた。
「そのことを誇りに思うべきだったのに」
「誇りに?」
「そうです。もっと自分の弱さを評価するべきだった」
「それは――」
 分からないこともないけれど、たいていの人間には受け入れられない考え方
だった。人を傷付けるにはあまりに小さな拳、自分の欲を押し通すことのでき
ない臆した心。それを誇りに思うことはひどく難しい。わたしたちは強さを信
奉する世界に生まれ、強くなれと言われながら育ってきたのだから。


 

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吸涙鬼の恋人

 吸涙鬼のパートナーも、やはり自分のパーソナリティーを投影してます。

 彼らの伴侶。
 完全に重なってしまってはいけないけれど、遠くてもいけない。同じ体質同士は、みごとに響き合い、共鳴することが出来るけど、抱えている問題をさらに悪化させてしまう可能性がある。

 吸涙鬼同士のカップルは、活性の高さとか価値観、志向が重なるために、ものすごく昂揚はするだろうけど、それがさらに彼らの熱を高めてしまうかもしれない。

 実際以前、ぼくと同じ体質の女性と話をしたとき、「わたしたちが出会うと、テレパシーのような会話が可能になるから、ものすごく昂揚して、とめどなく会話を続けてしまうけど、あとで熱が出て寝込んでしまうこともあるのよ」と忠告されました。

 たしかに、同類のひとと会って話をした夜は、もうぐったりとなって動けなくなることが多いのです。

 だからもし、他の物語で吸涙鬼同士がカップルになることはあっても、ふたりはずっと一緒にいることはできないんじゃないかな、と思ってます。

 小説のヒロイン、吸涙鬼の恋人は彼とは逆の体質の持ち主です。
 それぞれが補い合い、平衡に向かう。陰と陽。
 彼にとって彼女は補陰の存在なんですね。
 遺伝的には近いところにいるんだけど、存在の在り方が違う。
 彼女は低体温で、いずれは活力を失い二度と目覚めぬ眠りに就く運命にある。
 走ることや騒ぐとこともなく、植物を友として生きてきた。彼女は植物のメタファーでもある。大雑把な分類で言えば、動物は陽で、植物は陰なんですね。
 彼の恋人に相応しい存在。ただ、彼女もまだ完全ではなく、そのために彼は大きな葛藤を抱えることになる。

 ぼくら夫婦も相補的な関係にある。
 ぼくは熱毒ですが、彼女は水毒に苦しんでいる。水滞とも言うんだけど、身体の水のはけが悪く、冷えに極度に弱い。

 この辺は話半分ですが、彼女は遺伝子的に中近東あたりの出らしい。なんか耳の形で分かるらしいんだけど、ある先生からそう言われた。
 乾燥した土地。そこに適応した身体。
 彼女はハーブ好きが高じてアロマセラピストになりましたが、ハーブの多くは乾燥した土地に生えています。

 ぼくはむしろ自分は熱帯の遺伝子が強いと感じている。
 好きな植物は羊歯とイモ、蔓性のマメ、苔。水草も大好き。水があれば幸せ、といった人間です。生まれてから一度も夏バテをしたことがない。湿度が上がるほど体調が良くなっていく。

 ふたりは体質的には真逆ですが、東洋医学的に言えば、だからこそ安定する。補陰、補陽の関係。

 孤独を好むところとか、倫理観なんかはかなり重なっているし、いつも「兄妹ですか」と言われてきたくらい、風貌も似ているので遺伝子的にはかなり近そうなんだけど、イコールではない。
 
 この小説のふたりも、そんな関係。

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吸涙鬼について

 このブログで「吸涙鬼」という小説を描きます、と書いてからはや六年が過ぎました。その間、「吸涙鬼はどうなりました?」というお問い合わせを、幾度もいただきました。
 お待たせしました。ようやく、お届けすることが出来ます。7月15日発刊予定です。

 もともと、ぼくは自分が「吸血鬼」なのではないか、と思うことがたびたびあって、それもこの小説を描く動機になっていたかもしれません。

 魔女と呼ばれていた人たちが、実際には魔女でなかったように、吸血鬼と呼ばれていた人たちも、実は吸血鬼ではなかったのではないか?

 よく、自分と吸血鬼の共通点を考えます。
 おそろしく色が白く、肌に青みが掛かっている。
 夜眠らずに、光を避けるように闇の中を歩き回る。
 異常な活力。まるで獣のように素早く、いつまでも森の中を走り続ける。
 嗅覚が敏感で、強い匂いを避ける。
 太陽に弱い(これはぼくではなく、うちの奥さんの特殊体質。強い光を浴びるとショック状態に陥ってしまう)。
 歳を取らない(うちの家系は異常な若作りで、父親は軽く二十歳ぐらいは若く見られていました。ぼくも三十を過ぎても学生とよく勘違いされてました)。
 異常な小食。基本的に食欲はない。
 
 もし、中世にぼくらのような人間がいたら、まわりのひとたちは奇妙に感じ、超常的な解釈をするやもしれない。もともと人付き合いを嫌う者が多いので、それがよけい誤解をひろげてしまう。

 知らない、ということは恐怖に繋がります。それが、あのおどろおどろしい吸血鬼のイメージに繋がった。やつらがいつまでも若いのはひとの生き血を吸っているからじゃないのか? 

 勝手な思いなしですが、こういうふうに考えるほうが、ぼくの性に合っている。

 これらの体質はドーパミンの過多が原因かもしれない。
 
 不眠症は明らかに過剰な興奮が原因。どこまでも走り続けるエネルギーもそう。五感が過敏なのも、脳が異常に活性化しているから。
 ドーパミンが過多になると食欲はなくなります。覚醒剤がやせ薬として使われるのと理屈は一緒です。
 歳を取らないのも、小食と関係しているかも。長命遺伝子は低カロリー状態で発動すると言われていますから。
 色白は、むしろ「外胚葉」という概念と関係しているかも。このタイプは肌が繊細なんですね。ぼくは学年で一番の色白でしたが、同時に肌トラブルをいつも抱えていました。

 で、ここからが、ぼく独自のキャラクター造形。

 まず、ドーパミン過多は当然のように体温が高いんですね。これは吸血鬼と真逆。青白い顔からの連想で低体温に思われがちですが、実は平熱が37.5以上ある。

 熱は冷まされることを望みますから、「湿」をぼくらは求める。
 ぼくは雨が大好きで、梅雨も好きです。そこから「いま、会いにゆきます」が生まれた。

 ひとの中で雨に近いのは、温度の高い血よりもむしろ涙ではないのか?
 そうやって「吸涙鬼」のキャラクターが生まれてきました。高い体温に自家中毒的な苦しみを覚え、それを癒すためにひとの涙を啜る。

 吸涙鬼は九割方が自分自身の投影です。

 ここからは東洋医学的な考え方。三十年も病人をやっているので、東洋医学の知識もかなり増えました。まあ、しろうと解釈ではありますから、かなり曖昧ですが。

 それで言えば、ぼくは肝熱タイプなんですね。肝が熱を帯び、それが身体に悪さをする。実証タイプ。陽であり、乾である。

 ここ数年はそれがさらにひどくなり、肝火上炎の状態になっている。

 症状はこう。

 頭暈や頭痛・顔や目が赤い・口苦や口乾・煩躁(はんそう)
 不眠、あるいは寝ても悪夢ばかりみる。
 脇肋部の灼熱痛・便秘・尿が黄色。
 耳鳴り・耳内が腫れぼったく痛み、酷ければ膿がでる。
 吐血、などなど...

 ほとんどが重なります。

 このタイプは異常に痩せているんですね。怒りっぽいっていう症状もあるんだけど、それだけがぼくと違ってます。東洋医学の先生からは、それが症状をさらに悪くしているとも言われてます。本来怒るべきところを怒らないから、身体に歪みが出るのだと。
 でも、ひとを責めるという回路がぼくはひどく弱いので、怒るのは難しい。
 自家撞着的な問題を抱え込んでしまっている。

 これも吸涙鬼に投影しています。徹底して非暴力。おそらくは、それがいっそう彼らの熱害をひどいものにしている。

 身体は実と虚の均衡で成り立っているので、肝の陽気が高くても、ふだんは腎陰がそれを中和してくれている。なので、腎陰が虚になっても、やっぱり熱害は生じてきます。ブレーキが利かない。

 これを腎の陰液が不足する、と言います。
 陰液とはひとの体液のことです。ぼくは小説の中で、これを勝手に涙と定義し、それを補うことで、彼らが回復するという設定を作り上げました。

 彼らは徹底して陽、躁ですから、ここで補う涙は、陰、鬱でなければならない。
 だから、彼らは相手に「悲しみの感情」を流し込みます。そこから生じる涙だけが熱を中和してくれる。
 涙を吸われた人間は、悲しみと性的歓喜を同時に感じますが、あとまで残るのは悲しみだけ。それを繰り返すうちに、その人間は心を損なっていく。
 ここに吸涙鬼たちのジレンマがあります。非暴力でありながら、結局はひとを傷つけてしまう。

 そこで、もうひとつの回復への道が用意される。
 それが眠りです。

 東洋医学では眠りは津液を補うと言われています。津液は陰液のうちの血液をのぞいたもの。

 小説の中では、彼らは眠るうちに、世界中で毎日流される涙が気化したものを吸収しているんだと説明していますが、実際にも眠ることは熱を下げる効果があるのです。

 実は、いまのぼくもそうです。
 最高熱に達した頃から、眠くてしかたない状態が続いている。日に何度も気を失うように眠ってしまう。過去にはなかったことなので、ちょっと恐くもあるんですが。
 そのうち何日も眠り続ける日が来るのではないか? そんな不安を感じています。
 
 でも、これが自然の本能なのかもしれない。津液を補うために活性を下げ、眠りを促す。
 
 まだ、書きたいことはいくつもあります。
 吸涙鬼のパートナーの特性。 吸涙鬼の人の病を治す力。暴力への激しい嫌悪。
 それはまた次の機会に。
 
 
 

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