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秋の小川

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 秋の風景。今年は例年になく水量が多く、この季節でもまだ夏のような流れ。メダカたちが元気に泳ぎ回っています。下はリシアがつくる丘の風景。大水があったせいで、ふだんとは違う場所までリシアが流れ着き、そこで成長して、このような味わい深い風景をつくっています。かなり接写しているので、右下の棒で5センチぐらい。
 ぼくが熱心に写真を撮っていると、スーツ姿のおじさんふたりがいつの間にかすぐ近くに。断片的に聞こえてくる会話の中に「埋め立て」「残土を持ってきて」という言葉が。ありゃりゃ..ここも埋め立てですか。自分の土地ではないので何も言えないですが、もう人口も減り始めるというのに、まだまだ人間のために自然は破壊されていくんですね。

 話の続き、
 眠りはけれど、簡単に訪れてはくれません。まあ、もともと睡眠物質をあんまり持たないで生まれてきたので、子供の頃から苦労はしていたのですが、このときは、さらに苦難が。
 以前も書いたけど、眠りに落ちそうになると、すっと意識が遠のくその瞬間に、一種の驚愕状態に陥って、胸がどきっとして目が覚めてしまう。「落ちる」感覚があるんですね。ほんとに眠りとは「落ちる」もの。その感覚に恐怖を覚えて、ショック状態になる。
 これはほんとにつらかった。拷問です。まだ眠気がなかなか訪れずに時計を眺めているほうが楽です。いろんな不眠のパターンを経験してきましたが、これが一番きつかったです。こうやって、うとうとしては、驚愕状態で目を覚ます、っていうのを一晩中繰り返し朝を迎える。これだけでもそうとう追いつめられていきました。

 こんな中で、「死」の意味について、どんどんと突き詰めて考えいってしまう。おそらく誰もが、思春期から青年期のどこかで、「死」の本当の意味に気付き、愕然とする瞬間を迎えるのでしょうが、ぼくはこの時でした。
 ダン・シモンズは「夜更けのエントロピー」という小説の中でそれが十二歳ときに自分に訪れたと書いています。
 その思いが「天啓のように脳裏に閃き」「身体じゅうの力が抜けたような気分」になったと言っている。

 この瞬間から、もう以前のような手放しの悦びは二度と訪れない。根本的に自分という存在が変わってしまうんですね。
 人はそれでも、どうにか虚無感をてなずけて生きていくものです。人生には意味があると信じて、強く生きていく。
 
  ただ、「不安物質」がだだ漏れ状態だと、それがほんとにしんどい。通奏低音というよりは、大音響のBGMのようなものです。つねにその思いが日々を浸食している。「心気症」っていうのも、これに近いのかな? って思うんですが、これもけっきょくは「意識していることを遠ざけられない」ってことなんでしょう。
 一種の条件反射のようになって、悦びが訪れると、必ずその次の瞬間にはこの思いが顔をのぞかせる。それで、もうしゅるしゅると悦びはどこかへ遠のいていってしまう。すべてが無意味で、なんのために生きているのか分からなくなる。

 心身症的な苦痛よりもなによりも、このことが一番、病気の中でつらいことなのかもしれません。これは誰もが感じていることなのでしょうが、化学物質の暴走が、それをより際立たせているって感じでしょうか。

 このころありとあらゆる病院に行ってますが、精神科だけは行かなかったんですね。四半世紀ほど前ですが、どうにも敷居が高く、また情報もほとんどなかった。心療内科っていうのも耳にしたことはなかったし。あのとき、いまの医療状況があればって、いつも思いますが、これだけは言ってもしかたないことです。

 ということで、適切な治療も受けないまま日々は過ぎ、微熱もずっと続いていたので、半年ぐらいは家で寝ているか、単位を落とさない程度に学校に行くか、そんな生活を続けていました。


 

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吸涙鬼

 吸血鬼ならぬ吸涙鬼の小説を書こうかと思って。
 血ではなく、悲しみの涙を吸って生きている一族。吸われたひとは、吸涙鬼になっちゃう。そうすると、もう自分では涙を流さない。だから悲しみが癒されることもなく、ずっと苦しい思いを抱えたまま生きていくことになる。レイ・ブラッドベリを読んでて、そんなプロットがふっと湧きました。

 四度目の発作---
 これはまた別の形。バイクで大学に向かう途中、手足の先が痺れ始めて、それが付け根に達し、最後は全身が痺れてしまった。すごく怖かった。というのも、徐々に心臓に向かってしびれが進んでいくもんだから、最後は心臓が止まって死ぬかと思ったから。国道の路肩にバイクを停め、三十分ぐらい歩道で寝てたんだけど、けっきょく誰からも声は掛けられなかったですね。まあ、世間なんてそんなもんでしょうけど。
 この痺れも、いまだに続いています。あるいは低血糖の症状だったのかもしれません。

 まあ、そんなこんなで、自分の部屋以外はどこも恐ろしくて、一歩も外に出られない状態に。一度だけ勇気を出して、自転車で500mぐらい離れてみたんだけど、もう不安物質がドードー血管を流れている感じでした。
 おそらく、一番理解しづらいのが、この「度を超えた不安感」ってやつでしょうね。ぼくも十九までは「普通」のひとだったので、それまではこんな激しい不安感情が存在することを知りませんでした。
 活発な子供だったから、何度も死にかけるような目にもあったけど、そのときに感じた恐怖も比較にならないくらい。
 つまり、「死の恐怖」を凌駕しているんですね。ぼくはこの不安を自分で「純粋不安」って名付けました。ある意味、理由が存在しない、理屈ではそれがなんの恐怖の対象でもないことが分かっているのに、それでも込み上げてくる不安だから。(「純粋歓喜」発作があったら怖いですね。いきなり凄まじい幸福感に包まれるの。躁や多幸症もこんな感じなんでしょうかね。)

 当然、不安には身体反応も伴います。脈が180とかまで上がって、身体ががちがちに硬直する。あと、とにかく心臓に熱湯が注ぎ込まれたような熱さを感じる。胃がきゅうっとなって、逆に腸は中のものをすべて出そうと激しく動き出す。失禁しそうにもなります。息苦しさと、あと離人感ですね。世界がどんどん遠のいていって、自分が自分の中に閉じこめられて、分厚いゴーグル越しに見て、水の中で音を聞いているよう。なんで自分がここにいるのか分からなくなって、人格がばらばらに千切れてしまったような感覚。

 でも、この発作は続いても三十分とかなので、実はやっぱり一番つらいのは、呼吸を意識してしまうことでした。これは目覚めているかぎり24時間つづく苦しみだから。これにともなって、あるゆる自律的行為を、ぼくはすべて意識してしまうようになりました。とくにきつかったのは咀嚼ですね。ものが飲み込めなくなった。逆に、唾液が止まらなくなって、しじゅう飲み込まなくてはならない。いまでも、咀嚼はすごく苦手です。喉にものが詰まりそうになって、怖い。実際、躊躇して食べるものだから、何度か詰まらせて窒息したこともあります。一度はバイト先で昼食時にこれをやって、一分ぐらい床に倒れて暴れ回ったもんだから、みんな気持ち悪がって、そのまま首になったこともあります。

 あとは、瞬きですね。これも意識してしまうとなかなかそこから離れられなくなる。ぼくの母親は、口を開いて舌を突き出し、左右に振るって行為を何気なくやっていたら、それを意識していまい一週間ぐらい止められなくなって、舌が千切れるぐらい痛くなったことがあるって言ってました。

 ふう...大丈夫ですか? やっぱりこんなこと書かないほうがいいかな...つらいひとは読まないようにして下さい。「いまあい」にも、「本当につらいことは書かなければいい」って書いたけど、これはしゃれになりませんもんね。ぼくが、これだけ作家として恵まれた状況になっても、どこか冴えない表情をしているのは、こういった理由からです。こんな夫を持つ妻も楽じゃないんですから。

 さて---
 あと、「何かをしてしまいそうな恐怖」っていうのも始終ありました。とにかく、ぼくは「死」がただただ恐ろしくて逃げたいことなんだけど、そう思えば思うほど、「何かをしてしまいそうになる」。最悪なのは「舌を噛みそうになる」恐怖ですね。「絶対死にたくない」のに、そっちに行ってしまいそうになる。だから、自分から好んで死を選ぶ人とは、ぼくは対極にいる人間です。絶対に生きたい。なのに「死」のことしか考えられなくなる。

 これで、当時よく覚えているのは、この生き地獄から逃れるには、どうしたらいいんだろう? って考えたとき、それが「永遠に眠る」ってことだったんですね。ただ、「永遠」って怖い概念だから、「1000年」ってやけに具体的な数字を考えてました。死のメタファーじゃなく、ほんとの眠り。それも1000年。この眠りの中で、幸福な日々を送る夢を見つづけられるなら、現実の生活なんてすぐにでも投げ捨てる。夢の中で彼女と手を取り合い暮らしていく。1000年の長きにわたって。これがこのときのぼくが考えた唯一の幸福の形だった。死も現実も恐ければ、逃げ込める場所は「眠り」しかなかったんです。いまでも考えは同じかもしれない。だからこそ「そのかれ」を書いたんでしょうね。

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木の実拾い

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 昨日、うちの奥さんと木の実拾いしていたら、近くの水路では「シジミ採り」をしている人たちが。
 写真は、そこからほど遠くない場所にある池です。都心まで電車で三十分ぐらいなんですけどね。けっこう自然が残っているものです。

 さて、前回の続き。
 最初の発作はけれど、習慣になることもなく一度きりで終わってしまいました。二度目はそれから半年後ぐらい、地学の授業の最中でした。感覚は一度目とほぼ同じ。けれど、このときはその時間が長く、放課後まで尾を引きました。じっとしていると意識が内側に集中してしまうので、とにかく歩き回って気を逸らすようにしました。世間でいましきりに言われているパニック障害とは、どうも違うようにぼくは感じています。身体反応というよりは、完全に意識の領域の問題ですね。ひとつの観念が頭から離れなくなって、それが繰り返されるうちに、回路がより強化されていってしまう。それでも、このときもぼくは日が経つに連れて、このことをあまり思い起こさなくなってゆきました。
 
 三度目の発作は、大学二年の春、あるいは三年の初夏。この頃のことは、あんまりよく覚えていないので、曖昧なんです。これが最大の発作で、しかも二十年以上過ぎた今でも尾を引くことになったのは、その前の数ヶ月間のぼくの生活があまりにも過酷なものだったからなのかもしれません。

 四年の終わりまでに800m競争で学生ランキング10位に入る。その目標のためにぼくはかなりハードなトレーニングを自分に課していました。日に八時間ぐらい練習したこともあります。
 二年のオフシーズン、ぼくは、100m11秒台半ば、20kmは1時間20分、そしてベンチプレスは92.5kgという数字を残しています。これなら、翌シーズンは充分戦える、そんな手応えも掴んでいました。実際、シーズン始めの記録会は絶好調でした。ただ、冬の終わりぐらいからどうしても咳と微熱が治まらず、胃腸もずっと調子を崩したままでした。身体が危険信号を出していたんですね。それなのに、ぼくはろくに食事もとらず、さらにハードな練習で自分を追い込んでゆきました。このころ何を食べても戻すか下してしまうので、ぼくは昼はヨーグルト一個か栄養ドリンク一本だけで済ましていました。

 そして発作。休日、近所の陸上競技場で自主トレーニングをしている最中にそれは起きました。この時の発作はかなりパニック障害に近かったように思います。あるいは過換気か。完全呼吸困難に陥りましたから。どうあっても息が吸い込めない。なんか細いストローを通して呼吸してるような、あるいは空気が思いっきり粘度を帯びたような、そんな苦しさです。なんとか自転車に乗って家に帰りましたが、息苦しさはどうしても去りません。そして例の強迫観念。呼吸を意識しているということを意識してしまう。それがどうしても頭から離れない。幸いだったのは、このとき母親がすぐにぼくの異常に気付いて、自分が服用している精神安定剤をぼくに飲ませたことです。これでぐっと楽になった。
 このときはまだ、息苦しさの原因は冬から続いている咳のせいだと思っていました。実際、病院に行ったら、気管支だか肺だかに影があるって言われて、無熱性肺炎て言葉もこのとき聞いています。

 怖いもの無しだったぼくは、このあとすぐにまたハードなトレーニングを再開しています。そして四度目の発作。
 それはまた今度。


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「不具合」について

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 これは、試写会のあとの完成披露パーティーで、土井監督のうしろで自分がしゃべる番を待っているところ。上着のポケットのフラップが中に入っちゃてますが、これはご愛敬。
 映画関係者が100人ぐらいはいたんでしょうか。そこで思いつくままに、つらつらとしゃべったのですが、終わったあと、みなさんが、「ぜんぜん緊張しないで、堂々としてましたね」って驚かれて、「いや、ぼくこういうのぜんぜん平気なんです」って言ったんだけど、どうにもみなさん、意外なようでした。
 
 実は、唯一緊張していのが、この写真の瞬間。
 このとき、ぼくはここから動くことができないので、「閉所恐怖症」的な発作に襲われていました。自分がスピーチしているときは、それを終わらせるのは自分の意思なので、「自由を拘束されている」ようには、まったく感じないんです。だから、リラックスしている。
 この「閉所恐怖症」的な発作は、場所の広い狭いとかではなく、「自分の意思で、その場所からよそに移動することが自由に出来ない」状況によって引き起こされます。自分で車を運転していても、高速道路で渋滞にはまると、やっぱり同じことが起きます。
 
 でも、写真で見るかぎり、あんまり内面の恐怖は分かりませんよね。そうとうにひどい発作でないかぎりは、こうやってかなり上手に隠すことが出来ます。そこで自分の「病気」を人には隠しておくって状況が生じたりしますが、まあそれもどこかで綻びたりするものですが。

 さんざん、「病気」のことをあちこちに書いて、同じような症状の方からも、メールとかいただいているのに、実は、詳しいことは、ずっと伏せたままでいました。あんまり読んでて楽しいもんじゃないし、ぼくもずっと「病気」のことには触れないままこのサイトを続けてきていたので。でも、ここまで本が多くの方の目に触れるようになると、やっぱり少しはこのことについても書いておくべきなのかなって思って、ちょっとだけ、ここで触れることにしました。まあ、思いつくままに少しずつ。

 最初の兆候はおそらく17歳の時。休日に学校で行われる全国模試に向かう電車の中で。
 何かの加減で、「ああ、いまオレ呼吸をしているんだな」ってまず思ったわけです。そこまでなら、けっこうみなさんあることでしょう。で、その次に「呼吸してるんだなってことをオレ、いま意識してるな」ってぼくは思ってしまった。この意識していることを意識してしまうのが、危険なことだったんですね。それでも普通のひとは、別にどうってことなく引き返せるはずですが、ぼくは、ひとよりも不安を感じやすい体質に生まれていた。それが命取りとなりました。
 ぼくは、「もし、こうやって意識していることが一生続いたら、どうなるんだろう?」って考えてしまったんです。本来自律的行為であるはずの呼吸が、つねに意識していないと為されなくなってしまったら、どうしようって。そう思った途端、全身が痺れるほどの恐怖感に襲われたんですね。
 これがすべての始まりでした。
 
 また、時間が空いたら続きを書きます。
 

 

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